二階から目薬

 いつかの時代、パリの街に、芸術家志望の青年がいて、食堂で働く少女がいた。
 ふたりは、恋人どうしだった。
 少女の仕事が休みの日、ふたりは必ず会って、街を駆けまわったり、自転車の遠乗りをしたり、青年の部屋で仰向けに寝そべり、頬を寄せあいながら1冊の本を読んだりおしゃべりをしたりして過ごした。そんなふうにしているだけで満足そうなふたりは、幼い子供たちのように見えた。ふたりが過ごす時間は、いつも明るく、いつも輝いていた。
 古い、小さなアパルトマンの2階に、青年の住む部屋はあった。粗末なベッドと机と、床の一角に積まれた何冊もの本だけがある部屋。
 青年は子供のころから日本に興味があった。ある日、彼は、いつものように少女と並んで寝そべりながら「コトワザ」の話をした。
「──で、その『コトワザ』のなかにね、『二階から目薬』という言葉があるんだ」
「どういう意味?」
「ええとね、──まわりくどくて効果がないこととか、まわりくどいせいでうまくいかないとか、そういうことの喩えなんだって」
「そうなの。まわりくどくて、──たしかにね」
「ぼく、この言葉、好きなんだ。2階から目薬をさすような無意味なことをわざわざやるのって、かえっておもしろいっていうか、格好いいっていうか、そんなふうに思うから」
 青年の言葉を聞いた少女は、笑い声を弾けさせた。
「ねえ。そういえば、ここも2階ね」
「うん?」
「目薬、持っているでしょう?わたし外に行くから、そこの窓から、目薬をさして!」
 そう言うや否や、少女は軽やかに起き上がり、階段を駆け下りて外へ出た。
 初夏の、晴れた日だった。少女は陽気な声で、2階の窓に向かって青年の名を何度も呼んだ。
「早く!早く、目薬をさして!」
 青年は笑ってそれに応えながら、右腕をのばして目薬の雫を少女に向けて落とそうとするが、なにせ2階の窓からだったし、そもそも路上でたえず飛び跳ね、ワンピースの裾を翻している少女の顔に狙いを定めるのは容易なことではなかった。何滴もの雫が光を放って落ち、すぐに陽射しに紛れるようにして消えていった。
「ささらないわ!全然!」
「きみが、おとなしくしてないからだよ!」
 通行人がみな、奇異だ、と言いたげな目で彼女を見、彼を見上げては去っていった。しかし彼女も彼も、そんなことはいっさいかまわなかった。
「じっと立ってて。そこに。そう。じっと!」
 青年が3度目にそう言ったとき、ワンピースの裾の動きはようやく止まり、彼女は2階を見上げ、大きな眼をさらに大きく見開いた。
 その表情を見て、青年は突然、はじめて接吻したときのことを思い出した。
「あ──」
 雫が落ちた。
「ささった!」
 少女の歓声があがったのは、その直後だった。
「ささったわ!ささった!」
「ほんとうに!?」
 青年もすぐに外へ出た。若い恋人たちは、路上で抱き合ってはしゃぎ、おおいに笑った。

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 それから10年たった。ふたりはまだ、恋人どうしだった。
 恋人どうしだったが、恋人どうしであること以外は、なにもかもが変わった。
 青年は壮年の男になり、少女も、少女とは呼べない齢の女になった。
 男は芸術家として認められるようになった。そのため、華やかな場所に出て人々と交流したり、仕事を請け負ったりするので忙しく、古い小さなアパルトマンの2階には、ほとんど帰らなくなっていた。
 女はその部屋で、ひとりで過ごすことが多くなっていた。
「引っ越しをしよう」
 ある夜、レストランでの食事中に、男が言った。
 向かい合っていた女のフォークとナイフを持つ手が止まった。
「なぜ?」
「なぜって。いつまでもあんな部屋にいるわけにもいかない」
「あんな部屋?」
 男は無言でナイフを動かした。
「無視しないで」
 女の声は険しかった。男の踵が床をひとつ、強く蹴った。
「きみはずっと待っていたのかもしれない。だが、ぼくだって待っていたんだ。必死で仕事をしながら、きみになにひとつ不自由させない環境を用意できるときを。必死だったんだ。なぜそれがわからない。わかるだろう。ぼくと別れずに、ずっとあの部屋にいたなら」
 女は黙った。
「食べよう。食事が済んだら、新しい家を見に行こう」
 女は、やはり黙っていた。黙ったまま、もう料理には口をつけなかった。

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 だれもが憧れるような、歴史ある、かつ洗練された雰囲気におおわれた地区に、男のいう「新しい家」はあった。手入れされた広い庭と、重厚さとモダンな機能性が両立した、いまどきの成功者が好みそうな2階建ての建物が夜の闇のなかで男と女を迎えた。女は溜息をついた。広すぎる。そして立派すぎる。男の「仕事の集まり」に連れられて行くときのことを思い出す。豊かで、垢抜けていて、冷たくて、そっけなくて、粋にていねいに無知な人間を見下すことに長けた人たちの集まり。
 わたしはそんな生活になじめない。わたしのほしいものはそんな生活では得られない。わたしは。わたしは。わたしは…………
 新しい家を眺めている女を、男は見つめていた。どちらの表情も、同じだった。「──ねえ」
 女が不意に、口を開いた。
「この家、いま、中に入れるの?」
「ああ。もう、ぼくのものだからね。鍵も持ち歩いている」
「2階から──覚えている?……2階の、あの窓から、目薬をさしてほしいわ」
 男は淡々と言った。
「目薬なんて、持っていないよ。いまは」
「さす真似でもいいわ。真似だけでも。わたし、あの下に立っているから。お願い」

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 男は、それ以上なにも言わず、女の言うとおりにした。女は、窓から姿をあらわした男の顔を、大きな眼で見上げた。男が右腕をのばし、女に向けて、見えない雫を落とした。
 女の大きな眼には、もはやなにも見えなかった。雫ばかりでなく、新しい2階建ての家も、質のいい服に身を包んだ男の疲れた表情も、夜の闇さえも見えなかった。代わりに見えるのはただ、あの初夏の日の光景だった。質素なワンピースを着ていた少女の自分、古い小さなアパルトマン、その2階にあった青年の笑顔、明るい初夏の陽射し、陽射しを受けて輝いていた路面や、木々の緑──
「ささらないわ!」
 女は叫んだ。歓声ではなかった。しわがれた、悲壮な声だった。
「ささらないわ!全然!ささらないわ!」
 男の返事はなかった。
「ささらないわ……ささらない……わたし、じっと立っているのに……じっとしているのに……」
 女は、やがて、両手で顔を覆ってしまった。
 覆った手から、雫がこぼれだした。