坂口安吾「堕落論」「続堕落論」

 

だらく[堕落](名・自サ)①〔仏〕道心を失うこと。②(身をもちくずして)品・おこないが悪くなること。「ーした生活」③おちぶれること。
(三省堂国語辞典第七版より)

 坂口安吾『堕落論』は、タイトルが有名なわりに誤解されがちな作品だ。そんな気がする。私の知人のひとりいわく『堕落論』は「ゴミ部屋に住む無頼漢の荒れた生活を描いた私小説」だと長年思っていたのだそうだ。憮然とした。でも人のことは言えない。私も、このエッセイはずっと「無頼派作家の代表・坂口安吾によるアウトローのススメ」的な作品だと思い込んでいたのだから。
 しかし『堕落論』で、安吾がほんとうにただ文字どおりに「人間は堕落する生き物だ」「堕落しろ」ということしか書いてないのであれば、そこに「論」の字は不要なのではないだろうか?
 そして、戦後76年、昭和から平成を経て令和となった現在も、なお読み継がれ、語られつづけることはなかったのではないだろうか?

 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(「堕落論」より)

 堕落論の冒頭である。戦時中、この国の人々は、つねに悲壮な決意とともに生きることを強いられた。国のために敵もろともに花と散り、国のために征く男を女は涙を堪えて健気に見送った。
 しかし見よ、戦争は終わった。終わってしまえば、戦争中のあれやこれや、あんなにかたく信じかたく誓ったことなど、人々はどんどん忘れ、なかったことにしてしまう。薄情なのでも、変わってしまったのでもない。もともと人間とは、そんなふうにできているのだよ──と、いうことか。
 それから忠臣蔵で有名な四十七士の話題になったり、小林秀雄の発言を引いたり、「若くして亡くなった姪」が出てきたり、二十の美女を好むと書いたり、疎開のこと、なんだか、まとまりのあるようなないようないまひとつ掴みづらい文章が続いてしまいに「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」となっては「堕落を肯定している」と読者が感じても無理はない。

 ただ(私はこれを最近ようやく知ったのだが)見落としてはならないのだ。いま引いた箇所の「前後」がどうなっているかを。
 再度引用する。先程引用した箇所は、丸括弧で括った。

(戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。)だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、(人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。)政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「堕落論」より)

 「前後」を見ると、単なる「堕落の肯定」ではない、人間が「堕落すると、どうなるか」「堕落して、それから、どうするか」ということについて書かれているのが見えてくる。
 そしてさらに、見落としてはならない。
 いま引用した箇所もそうだが、それだけでない。安吾がここで「天皇制」に触れていることを。

 そして「続堕落論」を開いてみると、安吾はこんなことを書いているのだ。

 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。(「続堕落論」より)
 それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。(「続堕落論」より)

 「天皇制」なるものは、権力者が利用する「カラクリ」にすぎない。みな、その「カラクリ」によって、騙したり騙されたりしているのだ。そこに実体はない。ただもっともらしい口実として、むなしく機能している。そういうことらしい。
 そうかもしれない。天皇制に限らない。権力者が権力をふるい、人々をおさえこみ都合よく事を運ぶための手段として、もっともらしく持ち出され担ぎ上げられ利用されているものは、大きなものから小さなものまで、古今東西、いろいろある。私は難しいことはわからないがそんなふうに思う。
 安吾は「不良少年とキリスト」という、これもエッセイの名作を書いているけれども、不良少年が卑怯な大人に対し怒りをぶつけるかのごとく、以下の言葉を繰り出すのである。

何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。(「続堕落論」より)
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!(「続堕落論」より)

 それにしてもこの「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」──心揺さぶる力を持つ言葉だ、と思う。安吾の言葉は、いつもシンプルで力強くて、鮮やかだが、この「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」は、とくに素晴らしい。

 さて「嘘をつけ!」とカラクリを糾弾した不良少年安吾だが、「続堕落論」は「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬかれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される」「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ」と結ばれている。「カラクリ」も、カラクリというものの性質ならびに天皇制を批判し、打倒を実現すればそれでよいというものではないようだ。

天皇制だの武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の偽瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ落ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。(「続堕落論」より)


 先に書いたが、「堕落論」では、人間が堕ちることは「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすために」必要とされることであった。

 堕ちる。

 「堕落論」「続堕落論」を読めば、「堕ちる」「堕落」とは、生やさしいことでないというのがわかる。うだうだとだらしない日々を過ごすのは自堕落であって堕落ではない。タブーを捨てる、というのは、理性と知性をそなえた人間にとっては、健全な生活を離れ、寂しく苦痛に苛まれる日々に身を投じることに他ならない。地獄である。だが、その地獄に身を浸し、そこから自分自身を見つめ、他者を見つめ、社会を見つめることでしか掴み得ず、理解し得ず、為し得ないこともある。いまの私は、この2作を読むとき、そんなふうに考えている。
 ごくライトな表現に言い換えれば「自分が痛い目に遭ったとき、人の痛みを知ることができる」などが近いだろうか。近いだろうか?どうも違う気がする。あまり自信がない。

 それはともかく、「堕落論」「続堕落論」の感想としては「不良少年とキリスト」「文学のふるさと」「青年に愬う」などとも関連させたかったのだが、また機会を改めたいと思います。

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