是枝裕和『万引き家族』

『怪物』を観て、ついに『万引き家族』を観た。物語としてよくできているなと思ったのは『怪物』だが、そんな比較はナンセンス。面白かった。

生活だけでなく、家族構成自体が「万引き」で成り立つ「万引き家族」。本当の家族とはなにか、というよりは家族というものの解体に主題があるのか。それぞれに絆があればいいじゃない、的な。
家族というものの捉え方だけでなく、「万引き家族」はいわゆる世間の論理と異なる論理で運動している。「万引き」について「誘拐」について、「看取る」と言う行為について、そして「家族」について。そのいずれにも、詭弁とも取れる「万引き家族」なりの意味付けがある。しかし祖母を埋めるという行為が「金がない」ことを根本的な理由として、その上に「こっちの方が寂しくない」という意味付けがなされるように、これら詭弁/論理は世間の論理と接しつつ構成されるものでもある。完全なアウトサイダーではなく、境界の住人なのだろう。特に子ども達は。
まだどちらにでも転べる未分化な子どもたち、片足を突っ込んでいる青年期の長女、そして沈んでしまった親たち、に分類できるだろうか。彼らがバラバラになって幕が閉じられる『万引き家族』は、『鬼滅の刃』の遊郭の鬼達の想像力と同様に自らの世界の外を知らないがために、選択肢がそもそも与えられていない人々の存在を浮き彫りにし、その恐怖を考えさせる。その意味で帰る場所があの家であったこと自体に、既に片足を突っ込んでしまった、想像力が規定されつつある長女の苦しみがある。対して長男は、駄菓子屋の主人と触れ合うことで自らの選択に違和感を覚え、「わざと捕まる」ことで「万引き家族」の論理に引導を渡したともいえよう。最後の母親の選択が「私たちではだめ」という否定神学的な語りでしかあり得ないのも、父親と長男との会話で繰り返される「それどこで知ったんだ?」も想像力の問題。我々の異なる世界/論理への想像力はそんなものである。
ただ、不安を抱えつつも、彼らの論理ではそれなりの幸せを維持していた「万引き家族」は国家や公権力、そして世間の論理によって解体させられ、長男は自ら施設を選択し、末っ子は選択の余地なく"不幸"な家庭へと帰っていく。元いた家を訪れた長女はどこへ?ともあれ「万引き家族」の論理は世間の論理へと矯正/回収される。境界やアウトサイダーを世間の論理によって説明することで包摂していく、その暴力性が描かれているようにも思う。この棲み分け自体がすでに世間の論理による解体と再構築の暴力ではあるが。
しかし、長男が"脱出"したのち、彼を置いて(警察の方が飯が食えると言う意味を添えつつ)いこうとするように、「万引き家族」の論理自体はその場しのぎのフィクショナルなものであった。これをどう捉えるかは微妙なところ。ここまで考えると「絆があればいいじゃないか」というほど単純な問題ではなくなる。悲しむべきは突如「万引き家族」の論理を失った長女の不幸、「万引き家族」の論理に疑いを持ってしまった長男の不幸、そして「万引き家族」の論理によって身近な脅威から守られていた末っ子の不幸だろう。子どもを教化する存在としての親の問題もまた物語においてメタレベルに据えられている。
我々が持つ選択肢とは、自分の意思で選んだと思っているものは、実は限定された極々少ないものなのかもしれない。

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