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ブレる勇気を持つ|「なぜ人はカルトに惹かれるのかー脱会支援の現場から」を読んで

先日、「居るのはつらいよ」の著者の東畑開人さんがこんな連続ツイートをされているのを見かけた。

この一連のツイートで紹介されていたのが、この「なぜ人はカルトに惹かれるのかー脱会支援の現場から」という本だ。

カルト集団と呼ばれた宗教団体を描いた「ワイルド・ワイルド・カントリー」というドキュメンタリーを以前Netflixで見たことがあり、団体内部で形成される人間関係や精神の動きにとても衝撃を受けたことがあった。そのため、東畑さんのツイートを見たときに「読んでみたい」と感じて、手にとった。

読んではじめに感じたのは「私はカルトという存在について誤った捉え方をしていたかもしれない」ということだ。この本で描かれている事象(もちろん描かれていることが全てではないことは前提として)と自分のイメージが乖離している部分も多いことに気付かされた。

そこで今日は本の内容を説明しつつ、感じたことをまとめておこうと思う。

(※ちなみにこの本で「カルト」は、以下のように定義されている。)

カルトとは、ある特定の教義や思想、あるいは人物そのものを熱狂的に崇拝する集団であり、その組織的目的を達成するために、詐欺的な手法を用いて勧誘したり、メンバーやメンバー候補者に対して過度な同調圧力を加えて人格を変容させ、精神的肉体的に隷属させたり、経済的に無理な収奪を行ったりするものをいう。

※なおこの記事は特定の宗教を否定する意図はありません。

入信と脱会経験

この本の第一章では、筆者の瓜生氏がある宗教団体に入信、12年にわたり布教活動に従事し最終的に脱会するまでが書かれている。

「サークル活動」と称されて勧誘を受け、大学時代に入信。団体の教えに感銘を受けた瓜生氏は、その後大学を中退し、団体の布教に専従する職員を目指す。その養成施設での研修は、かなり厳しいものだったという。

朝6時に起床し、5分後には洗顔と着替えをして駐車場に整列。分刻みのスケジュールで食事準備、片付け、掃除を行う毎日。

厳しい教えの元で修行生活を送った。

・我ら学院生は、会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します
・我ら学院生は、上司の指示は会長先生の指示と心得ます
・我ら学院生は、いかなる場合も仏法最優先とし、破邪顕正に命をかけます
・我ら学院生は、常に求道の姿勢を正し、会員の模範となります

こうした修行生活を送り、指導層から「姿勢が正された」という評価を受けて初めて卒業できる仕組みだ。

晴れて卒業すると、毎月「指令書」が届く。そこに記されているのは、お布施と団体のアニメビデオの訪問販売のノルマだったという。第1章では、このように瓜生氏の12年間にわたる団体で生活と、そこで感じたことが描かれている。

カルトに対する誤解

続く第2章と3章では、自身の脱会後に、信者の脱会支援を行う瓜生氏の観点から以下のようなことが語られる。

・どういう人がカルトに入るのか
・なぜ人々は「正しさ」に依拠するのか
・なにが教祖を誕生させるのか
・なぜ人々は神秘体験を求めるのか
・どうしたら脱会できるのか

そこでは、人々が「カルトとはこうだろう」と抱いている一般的なイメージとは少し異なるカルトの姿が語られている。

なぜ人はカルトに入るのか

まずはじめに否定されているのが「判断力や思考力がないからカルト宗教に入ってしまったのだろう」という一般的な見方だ。

瓜生氏は多くの入信者に触れるなかで、「入信者とは、人間の根源的な救済や教えを求める『核』を持っている」者であると感じるようになったという。生を前にして根源的な問いから目をそむけられず、必死で思考しようとしたからこそ、カルトに入ったという見方だ。

生きることは無条件に価値のあることとされ、自殺はどんな場合でもしてはならないと言われる。しかし、そもそも生まれたくてうまれてきたわけでもないし、死にたくなくても必ず死ぬのだ。生きるという「価値」だけ無理やり押し付けられるのに、死に向かって生きなければならない私の人生ってなんなのだ。(p29)
私たちの人生は降り先のない飛行機に乗っているようなものだ。その飛行機の中で歌ったり踊ったり騒いだり、恋愛を楽しんだり財を蓄えたり名声を得ることに夢中になったりしている。しかし飛行機の燃料はいつかはなくなるのであって、なくなれば飛行機の中の人の関心はただ一点になる。

「どこに降りるのか」

降り先がわからなければ、飛行機は墜落するしかない。この墜落ということを忘れて目の前の出来事を楽しむことができても、いざもう燃料がないとなったら、飛行機の中でしてきたあらゆることには価値がなくなる。(中略)
残ったのは「そういうことのできない人たち」だった。つまりはいつか墜落する人生という飛行機の中では、その場限りの京楽は味わえないと思った人たちだった。(p31、32)

このように目の前の仮りそめの快楽に身を委ねることに虚無感を感じ、どうしたら生きる意味を見いだせるのかを必死に考え、迷いつつたどり着くのが「カルト」なのではないかと瓜生氏は言う。

変容する問い

しかし、「人間は最終的には死ぬのに、なぜ一生懸命生きるのか」といった根源的な「問い」は、内部にいることによって徐々に変質していくとも瓜生氏は話す。

その原因となるのが「正しさへの依存」だ。

団体に入ることによって入信者の多くは「この教えを守っていれば、生きる意味を見つけられる」といった答えを与えられることになる。

「答えを与えられるとは、問いを放棄することである」そう瓜生氏は言う。

人生の根源的な意味を求める宗教心は、教団から与えられた「正しさ」によって殺されてしまう。だからそこにいる間は迷いはなく、とても充実していたし、何よりどんな行動にも完全な意味が与えられていた。人生の無意味さに対する不安から解放されるのである。(p109)

そして団体の提示する「正しさ」に依存するうちに、当初抱いていた「どうしたら意味のある生を送れるのか」という問いは、徐々に「どうしたら会長先生の御心に叶うことができるのか」という問いにすり替わっていくのだという。

脱会の方法

そして、最後の章で語られるのが脱会の方法だ。

この章で一番印象に残ったのは、「脱会という『正解』を押し付けない」という言葉だ。

外部から脱会を促す人々は往々にして「外の生活の方が楽しく豊かなものであり、団体の教えは間違っているから早くでてきてほしい」という立場をとりがちだ。

しかし、外での生活が「楽しく豊かである」と思えずに悩み続けたからこそ、人々はカルトに入信する。答えのない問いに、こちらの考える「正しさ」をぶつけても、それは反発を生み出すだけだ。

だからこそ、まず最初に行うべきは脱会を促す側が「正しい」と思っている人生観を相対化すること(正しさを押し付けないこと)が大切なのだという。

そして、入信者が抱いている人生の深いを問いを共有し、同じ視点で考え、理解しようとすること。そして、否定するのではなく、一緒に問いを抱えてゆらぐこと。

目の前の信者を洗脳されたロボットとして扱うのではなく、悩んで迷ってきた一人の人間として信頼するということだ。(p.179)

そう瓜生氏は言う。

この他にも本書では、「マインド・コントロールは、操ってやろうという『行う側』の純然たる悪意の上になりたつものではなく、『行う側』の純粋な善意によって成り立っている」という話や「カルトのカルトたる所以となる行為を行っているのは集団のほんの一部にすぎず、カルトと呼ばれる団体のなかでも通常の社会生活を送りながら常識的な範囲で活動に関わっている人が多い(カルトのゆでたまご構造)」という話、さらにはなぜ教祖は徐々に過激な教えに走っていくのかなどが筆者の視点から書かれている。

思考停止をしない

メディアでのセンセーショナルな報道を見ると、私たちは一面的にそれを「悪」だと捉えて断罪してしまいがちだ。結果だけに注目し、「なぜそう歩んだのか」「その時何を考えていたのか」といったプロセスに目を向けることを忘れてしまいそうになる。

でも「思考力していないからだ」「道徳心がないのだ」と思い込みで相手を解釈しようとする事自体がむしろ思考停止なのかもしれない。今までこの「カルト」という話題に対して、思考停止していたかもしれないと感じた。

もちろんこちらの書籍に書かれていることをもってして「完全に理解した」とすることもまた危ない。

正しさは複数あると考えて、しっかりブレる勇気をもつこと。

カルトを考える上で重要だと瓜生さんが言うこの考え方は、なにかについて判断したり、理解したりしようとするときに大切なことなのだと思う。

今、自分は「正しさ」に依存していないか、を考えつつ目の前の事象や人を捉えていきたい。

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