自分が抱えている本当の「弱さ」や「悩み」は、自分にもわからない
「ちょっと文字にして残しておきたいな」と思ったことがいきなり思い浮かんだので、noteを開いた。こういうのって、明日になると忘れてしまったり、今ほどの熱量がなくなってしまっていたりするからな。
最近、身の回りでよく”弱さの開示”と”信頼関係”の話をよく聞く。
自分の弱さを誰かにさらけだし、それを受け止めてもらう経験を通して、人は相手に信頼感を抱く。
一言でいうとこんな話だ。
私も書籍化のお手伝いをさせてもらった、心療内科医 鈴木裕介先生の本のなかでは、そのプロセスがより分かりやすく説明されている。
僕はよく患者さんに「安全基地となる人間関係をつくるには、リスクをとって自分のことを開示する勇気が必要だ」と伝えています。例えば、自分が本当に困っていることや、なるべくなら隠したいと思っている悩みや弱みを伝えることです。そこそこ成熟した大人というのは、リスクを伴うリアルな自己開示に対して「自分を信頼してくれてこういうことを言ってくれたのはありがたいなあ」という気持ちを抱き、その信頼に応えたいなと思うものです。お互いにそうした気持ちが生まれた時、安全基地となる人間関係が築かれていくことになります。(p.42)
つまり、誰かと信頼しあえる関係性を結びたいとき、弱さの開示はひとつの手段になりえる。これは人との関係性に悩む人にとって、大きなヒントになるのではないだろうか。
身体と心のギャップのはなし
実は、以前体調を崩して心療内科に通っていたときに、私自身、何回もこの話を聞いたことがあった。けれど、実は当時は全くピンときていなかった。
というのも、自分に「隠したいと思っている悩みや弱さ」なんてものがあるとは、全く思っていなかったからだ。
基本的にはなんでも相手に正直に伝えているし、「人見知りです」「臨機応変な行動は苦手です」「集団での飲み会は固まります」「ものをよくなくします」などと、声を大にして周囲に伝えていた。
だから、この話にあまりピンと来ていなかったのだ。
しかし、当時は自己認知とは裏腹に、身体は常に疲れている感覚があった。仕事に行こうとすると吐き気がし、行き帰りは身体が重すぎて駅のベンチから立てないことがよくあった。咳が一日中止まらなかったせいで、骨にひびが入ってしまったこともあった。要するに、身体はわりとボロボロだったのだ。
つまり「悩みも弱さも人に話して楽になっている」と頭では認識していたのに、身体は「悩んでいるし、弱っているよ」というサインを出している。心と身体があべこべな状態だったことになる。
隠したいと思っている弱さは、「自分」でもわからない
なぜ、そんなふうに心と身体のミスマッチが起こってしまったのだろうか。そう考えると、あることに気づく。
それは、深刻に悩んでいたり、弱さだと思っていることには、自分自身でも気づかないように蓋をしていたからだ。
当時はわからなかったが、今になって振り返ってみると、
心身の調子を崩して、いつも通りのパフォーマンスが発揮できないこと
をみんなに隠したかったのだと思う。なぜなら当時私は、
「優秀だと思われたい」
「役に立つ人材だと思われたい」
ということに強いこだわりをもっており、そうではない自分の姿を直視できなかったからだ。要するに、とにかくプライドが高かったのだ。
心身がどんなに悲鳴をあげていても、頭では必死に「そんなはずはない」と否定し続けていたのは、自分のプライドがズタズタになっている事実から、目を背けたかったからなのだと思う。
「弱さ」は自分が最もプライドをもっていることに紐付いている
では、以前までの私のような人が、自分の弱さをメタ認知するにはどうしたらいいのだろうか。
それは「他者に見られたときに、強い焦りや不安を覚える自分の姿」に着目してみることだと思う。
不安、焦りを感じる事柄の根底には、だいたい自分が最もプライドを持っていること(損なわれたくないとおもっていること)が横たわっている。
まずは自分の不安や焦りに気づき、それがどのようなプライドの毀損によって引き起こされているのかを言語化する。
それができたら「プライドがズタズタである」という自分の現状をしっかりと認識し、他者に伝えてみる。
この一連の流れが、自分の「弱さを開示する」ということなのだと思う。
そういう意味でいうと、冒頭でわたしが羅列した「人見知りです」「臨機応変な行動は苦手です」「集団での飲み会は固まります」「ものをよくなくします」は、弱さの開示とまではいかなかったのかもしれない。
なぜなら、それらは私にとって存在価値を揺るがすような「弱さ」ではなく、損なわれていても大きな痛みを感じない事柄だったからだ(あくまで私にとって、であり、これらの事柄はほかの人にとっては存在価値を大きく揺るがすものになりえる)。
本当に人に隠しておきたいような弱さは、もっともプライドを持っている事柄に強くひもづいているのだ。
隠しておきたい弱さを伝えた先に、たしかに信頼関係はある
自分が強くプライドをもっていることが、うまくいかないとき。その「ボロボロな状態」を打ち明けるには、大変高いハードルがある。
しかし、打ち明けて受け止めてもらえたからこそ、相手を信じられるようになるというのは、本当にその通りだと思う。
当時は、頭がうまく働かず、会議で内容がうまく聞き取れないことがあったのだが、「優秀だと思われたい」「役に立ちたい」と何よりも強く思って私は、議事録がとれない事実に、かなりのショックを受けていた。そして、たまたま話を聞いてくれていた友人に、
「議事録がとれないのが、悔しくてしょうがない」
と、わんわん泣きながら打ち明けたのだ。その時に「ああ、これが弱さの開示」なのかとはじめて気づいたように思う。
プライドがズタズタになった状態を見ても、「そんなこともあるよねー」と笑って受け止めてくれて、引き続き自分のそばにいてくれる人は、おそらく今後どんな状態になっても、そばにいてくれる人である。弱さを開示することで、安心のある関係を結ぶことができたのは本当によかったと思う。
最後に冒頭で紹介した鈴木先生がsoarというウェブメディアで話していた言葉を引用しておきたい。
自分がイマイチだな、しょっぱいなって思っている部分って、実はその人の魅力と密接につながっているんだよね。そのいびつさを受け入れてもらえた、それによって、一層相手と深い関係が築ける。その経験があれば、きっと自分に対して「嫌いだけど仕方ないな、今世はこれでやってみるか」って思える。
soar「自分を苦しめる「こうあるべき」を捨ててみよう。鈴木裕介先生に聞く、”頑張りすぎる自分”との付き合い方」より
自分のしょっぱさを認めるのは、もちろんしょっぱい体験なんだけれども、それを乗り越えると安心のある関係性を築けるというのは、希望でもあるなと思う。
私はまだまだ自分のしょっぱさを見つめている最中だから、もっと精進したいなと思う。おわり。
※追記
少しわかりづらい書き方になってしまっているかもですが、心身の調子を崩す=弱さ、ということではなく、当時の私はその状態を受け止められなかった、かつ、そこにプライドが紐づいていてなかなか人に打ち明けられなかったことから、ここでは「弱さ」と読んでいます。人によって「弱さ」に当てはまることは違うのではないかと思っています。
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