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能登半島と和倉温泉(2)

 加古川で6年半毎週開催してきた朝市を現場でリードするのが河村操さんである。今回の能登半島地震では彼が思わぬ活躍の場を得ることになった。

 操さんが若いころ初めて就職したのが大手製薬会社のエスエス製薬だった。営業マンとして金沢に赴任し、それから合計17年北陸地方を自動車で走り回っていたのだ。月に5000キロ。2年で営業車は廃車になった。

 石川県では、金沢市や七尾市などの大都市は経験のある先輩営業マンが担当する。操さんは新入りとして能登半島の「ドサ回り」を担当した。能登半島をひと月に2周するのが、通例。町といっては小さすぎるほどの半島の浦々まで、かつてはたくさんあった薬局をまわった。冬はスーツ姿の足下にもちろん長靴をはく。大雪になると通常なら10分で行ける場所が2時間かかるようなこともあったそうだ。

 能登半島地震のめんどうなところは、大都市圏から遠く離れた過疎地の能登半島で起きたこと。さらには元日という、1年でももっとも寒くなる時期の目前に起きた地震だったことである。

 ボランティア活動を長らくやってきたわたしにとっても、この2つは大きなハードルになった。雪はおろか雨すら少ない瀬戸内で生まれ育ち、これまでに生活した北限は1年だけ住んだ京都市。最初の職業を得たのもフィリピンのマニラという南国人間のわたしは、住みかとして雪や寒さとまともに付き合った経験が皆無にちかい。

 操さんはわたしの経験不足を完璧におぎなってくれた。金沢市はもちろんのこと、七尾市から能登半島の隅々まで、詳しいエリアは裏道までも知悉していて、地図などまったく見ずにどこでも行ってしまうし、どの程度の雪や凍結路がどのていどの困難さであるかなど身体にしみこんでいる。くわえて日本海でサーフィンを長年やってきた練達の遊び人でもあるので天気予報も正確だ。

 助手席に座っているわたしは道案内をする必要がない。運転は完全にまかせきりにして、なんなら周辺の風物の案内すらしてもらえる。よくもこんな贅沢な運転手兼ガイドが身近にいたものだと、めぐりあわせに感謝するしかない。

 七尾市は操さんの先輩の担当だったとさきほど書いた。七尾市というのは新任の若造にはまかせられない大都市だということだ。このあたり、わずか5万に満たない現在の人口規模と、その街が地域、ひいては全国、ひょっとすると外国(七尾にはかつてウラジオストクへの定期航路があった)にまでに及ぼしていた影響力は釣り合わないが、それは厚い歴史をもつ地方都市によくあることだ。商売するにも経験値が必要で、つまりはカネではかるだけの「経済」ではなく、それ以外の「経世済民」が今もその街を中心に回っている。そこに入り込まないと商売ができないということだろう。

 県外者からすれば石川県の首邑は金沢でそれ以外はあまり思いつかない。人口規模としても50万近くと圧倒的だ。しかし歴史的にみれば前回書いたとおり、石川県──と書くのもはばかられるほど太古の昔だが──といえば七尾であった時代がある。明治時代にいまの47都道府県が確定するまでに「七尾県」という自治体が短期間存在したこともあった。

 2024年は元日の夕方からおせち料理もそっちのけで石川県の地図や地名辞典をにらんでいたせいで、この土地の豊かさを支えるものがなんとなく見えてきている。

 たとえば七尾市は能登半島の半ばあたりにあるが、先に行くほどに東に折れ曲がる半島は、冬に日本海を吹き荒れる北西季節風から七尾市を守るための衝立(ついたて)のようだ。しかも半島に東側で富山湾からさらに七尾湾が引き込まれ、それが能登島によって区分けされた北湾・南湾・西湾という3つの前海を七尾にもたらしている。

 昨日とおととい、七尾城に上がってみたのだが、頂上付近でスマートフォンのイヤホンを落としてきてしまったので本日も回収に上がるはめになり、都合なんと3日続けて登城することになった。落石があるとのことで道路が通行禁止になっていたが、それほど問題があるようには見えなかったのであえて行ってみる。七尾城址もすこし石垣が崩れているていどで問題なく通行できた。とはいえ、先週なかばの大雪がいちめんに残っていて初日の登城は自動車も人も足元を注意しながらである。

 きょうは冬の日本海側にはめずらしく晴れ上がった。穏やかな日本海のなかでも七尾湾はさらに内海であり、鏡のような湖面といいたくなるような風情である。

 七尾城址は標高が三〇〇メートルあって海にほど近いわりに高い。瀬戸内海を直下に見おろすわがふるさとの高御座山(播磨富士)に標高と海との距離間がよく似ている。駐車場から徒歩で5分の本丸跡へ歩く。

 最近は日本中で山林の管理が行きとどかなくなり、「眺望がよい」という触れ込みの山に上がってみても樹木の陰になって遠望できないことが多い。あまり期待せずに上ってみたが、手前の能登島はもちろん、遠く能登半島が東に屈曲しているさままで遠望がよくきいた。見れば周辺の杉木立の梢がきちんと刈り込まれ視界を確保してくれている。こうした小さな「気くばり」の存在は、この土地の人々の歴史と誇りを感じさせるといったらうがちすぎかもしれないが、たしかにこの七尾城は立派な城で、城跡だから建物は残っていないものの、尾根に張り巡らした石垣も大規模な屋敷跡もしっかり残されている。城郭のことは知らないわたしでも一見に値する名城であるのはすぐにわかるくらいのものだった。

 七尾湾の話に戻ると、この3つの湾は浅い水域で、とくに10メートルに満たないほどに浅い七尾西湾は干拓して水田と貯水池にする計画があったほどだ。これは頓挫したのでいまの景観が保たれたし、いま和倉温泉に提供されている牡蠣はこの七尾西湾で養殖されたものだそうだ。城跡から見ると手前の七尾市街の向こうに能登半島を借景に池を作ったように3つの静かな湾が広がる。よくできた日本庭園みたいにも見えて、よくぞ西湾の埋め立てを踏みとどまってくれたと感謝したくなる。生駒山地まで望める播磨富士からの眺めも捨てたものではないと言いたいが、荒海と曇天からなる冬の日本海とのコントラストと、島あり入り江ありのたおやかさからいうと七尾城のほうが二枚も三枚もうわ手だと断言するほかない。

 東日本大震災でわたしが繰り返し出入りしたのは南三陸町の歌津半島で、リアス式の三陸海岸のまっただ中の漁村だった。13年後にやってきた七尾湾がこうして入り江の多い景観を作っているのも沈降している地盤のたまものだという。今回の地震でたまたま投宿することになったのが七尾市の和倉温泉のすぐお膝元にある石崎地区で、ここは有名な漁村であるらしい。つくづくリアス海岸と漁村に縁があるものだと思うが、南三陸と大きく違うのは、東北が化外の地だったのにたいして石崎地区は漁村として律令時代からナマコを献上してきた場所で、さらに下って江戸時代には天領だったことがあるほど「由緒正しい僻地」だということだ。

 太平洋ベルトばかり集中的に発展させてきた現代日本の意識からすると能登半島は大田舎であり、地震報道でも過疎地であることばかり話題になる。

「日本より北朝鮮に助けてもらったほうが早いのではないか」

地震発生3日目に訪れた珠洲市の集落では、そんな冗談が支援の遅れに業を煮やした住民から聞かれるほどだった。しかしそれは明治以来のここ150年あまりのことで、律令時代から江戸時代を通じてつい最近まで、都からは遠方ではあれ能登国の中心地として需要な役割を果たしてきたことは、この地に入る人々は基本的な礼儀として踏まえておいたほうがいいのではないか──と思わされる。

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