見ないで→見ちゃう の場面転換力

前回の記事では、イザナギがイザナミを、

前々回の記事では、山幸彦が豊玉姫を、

姿を見ないでくださいとお願いされたにもかかわらず、

見てしまうというエピソードをご紹介しました。


見てしまったことが、二組の夫婦の永遠の別れのきっかけになるのですが、

実はこの二つの別れが、日向神話を大きく動かしていきます。


妻イザナミと一緒に国産みをしていたイザナギは、黄泉の国で変わり果てた姿となったイザナミから逃れ、

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原 で、黄泉の国で受けた穢れを落とすため、禊ぎをします。

禊ぎをする間、イザナギが脱いでいった衣類からも次々と神が生成するのですが、

禊ぎの最後の最後に生まれたのが、

アマテラス、ツクヨミ、スサノオなのです。

つまりアマテラスは、イザナギが妻と別れひとりになったからこそ生まれた神とも言えます。



山幸彦と豊玉姫についても、

本来の姿でお産をしているところを山幸彦に見られた豊玉姫が、

自分が海に帰る代わりに、妹の玉依姫を乳母として呼ぶのですが、

この時に産まれた御子、ウガヤフキアエズは、成長すると、乳母であった叔母、玉依姫と夫婦になります。

そして、この二人の間に生まれた御子が、初代天皇である神武天皇となるのです。


見てしまったというトリガーが、

日向神話の神代の始まりをつくり、

新たな、天皇の時代の始まりへと物語を繋げていきます。


私たちは普段生活している中で、何かを失敗したり、誰かとの関係が終わってしまうことについて、

あの時こうすれば、と過去を後悔しがちですが、


失った分、いやそれ以上に、自分の想像を超えるような場面転換が、もう目の前にはあるんだよ、

というメッセージが、 


日向神話には込められているような気がします^ - ^






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