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取り除かれた焼きそばを眺めて、ペンギンに救われる人間。


「あ、お肉は抜いてください。あと上に乗せるかつお節もいらないです」

インド人の知人と一緒に京都の伏見稲荷に観光に行ったとき、「屋台で焼きそばを買おうよ」と彼が言った。その後、屋台の前で彼が冒頭の台詞を言ったのである。

彼の言葉を聞いた屋台のおじさんは一瞬「え?」ときょとんとした顔をして、あぁはいはいと小さく細切れになった豚肉と、熱い麺の上で踊っていたかつお節を丁寧に取り除いている。

そのやり取りを後ろから眺めていた私は、ぼんやりと「この人とご飯屋さんに行くのは大変そうだなぁ」なんて薄情なことを思いつつ「こういう人のことをヴィーガンっていうんだっけ」「日本にはヴィーガンの人が行けるお店はどのくらいあるのだろう」などと今まで思いもしなかった疑問を一生懸命豚肉とかつお節を取り除いているおじさんの姿を眺めながら考えていた。

私が多様性社会とやらに触れた瞬間である。


「そうだね。教えがあるから、食べないね」


豚肉とかつお節が綺麗に取り除かれた焼きそばを頬張りながら知人は「美味しいね」と笑っていた。私はふと気になり「お肉やお魚を食べないのは宗教の教えに従っているからですか?」と疑問を口にした。

もしかしたらこういった質問をすること自体が相手にとっては失礼なのかもしれない。だが私の身の回りの人で「肉・魚を食べない」という人は皆無だった。その思想を理解する為にもまずは知ることが大事だろうと少し緊張しながら一歩踏み込んで質問してみたのだ。

すると彼は「そうだね。教えがあるから、食べないね」と答えてくれた。多分日本に来てから何度もこの回答をしたのだろう。ベジタリアンやヴィーガンなどニュースや海外では時折耳にするが、実際に自分の身近の人で、しかも日本で会うのは初めてだった。

インドでは、8割がヒンズー教徒、1.5割がイスラム教徒、残りの5%がカトリック教徒など様々な宗教の信者がいる。一般的に、ヒンズー教徒は牛肉を食べず、イスラム教徒は豚肉を食べない。その中にはベジタリアンの人も居て、彼らは牛肉豚肉以外の肉も食べず、魚も食べないという人がいる。知人はこの肉も魚も食べないベジタリアンだったのだろう。

正直に言うと、私はこのときこの知人のことをあまり理解できなかった。そもそもヴィーガンやベジタリアンといった思想がよく分からなかったのである。
そうなんだ、お肉、あんなに美味しいのにな、私には無理かもな。こんな的外れな感想さえも抱いていた。当時の私はなんというか、とても浅い、思慮に欠けた人間だったのだ。


人間が居ない世界で、人間の業をみて


それから1年か、2年ほど経った冬のことだ。Netflixで「OUR PLANET 私たちの地球」という自然ドキュメンタリーシリーズをなんとなく観始めた。


コロナ禍で世界全体が灰色に重く染まり、度重なる緊急事態宣言や外出自粛などの影響で私の心は疲れ果ててしまっていた。とにかくなんでもいいから癒されたい、この鬱屈した、窮屈な思いをどうにかしたい。心が豊かになるような、軽くなるような、そんなものをただひたすら浴びたいと思った。現代社会から遠く離れた非日常的な世界を見たかったのだ。

「OUR PLANET」は地球上の広大な大自然とそこに住まう野生動物たちを、現代の映像技術で美しく鮮やかに映し出しているドキュメンタリー作品だ。

この作品には人間が一切映らない。海外の自然ドキュメンタリー作品によくあるのだが、自然や動物を描くときは「彼ら」しか描かない。
日本のバラエティー番組のように司会者もゲストも居ない、ワイプ越しに見えるタレントも居ない。途中でぎこちない司会者とゲストのトークも入らない。ただただ広く大きな自然と動物だけが映し出される世界だ。その世界には人間が居ない。

私はその「人間が居ない世界」が好きになり、その世界に出てくる自然と動物たちに魅了されていった。そして各エピソードの最後には「私たちの活動をご支援ください」と毎回自然保護団体の広告が入ってくるのだ。

私は当初、とにかく自分が癒されたい、心を軽くしたいという一心でこのドキュメンタリーを観ていたので「自然保護」とか「絶滅動物」などにはそこまで気に掛けなかった。
しかしシリーズを進めていくうちに、いかにいまの地球が動物たちにとって住みにくい世界なのかを実感していった。元凶は、無論私たち人類だ。
私はこのドキュメンタリーを通じて、動物たちにとっては人間がいかに迷惑な存在であるのかをまざまざと実感させられたのである。


私よりもずっとずっと世界を感じて生きてきた人なのかな


世界史が好きな私は、産業革命以降の人類の発展や文明と引き換えにどれほどの自然を犠牲にしていったことはよく理解しているつもりだった。

哲学の世界では「目的論的自然観」と「機械論的自然観」という言葉がある。これらは自然をどう見るかの違いを指す。

「目的論的自然観」とは、『この自然(木や雷など)は何の目的で存在しているのだろう?』という見方であり、一方「機械論的自然観」とは、『この自然をどのように活用出来るだろう?』と機械の部品のように見る見方となる。

時代が進むによって、古代ギリシャ時代から占めていた「目的論的自然観」から「機械論的自然観」へと変化していった。
つまり昔は「この木は何故存在してるのだろう?」という考えから「人類にとってこの木はどう使えるだろう?」と、自然や神中心の視点から人間中心の視点へと変化したのだ。このことで科学が発展し、産業革命が起こったキッカケとも言われている。

産業革命が起きたことにより、「環境破壊」という概念も生み出されることになった。昨今欧州で環境破壊や自然保護に対する意見が活発なのは、環境破壊という概念が最初に生まれたのも欧州だから、という見方も出来る。

人類の発展と自然破壊は表裏一体の関係だ。私はこの事実を頭では理解していたつもりが、実際にはどこか遠い国の話だと受け止めていたのである。
だが「OUR PLANET」を観終わっていくうちに、どんどん自身の中で今までの知識が地に足を着いたような感覚と、焦燥感のような、危機感のような感情が芽生え始めていた。

地球は想像以上に危険な状態なのかもしれない。自然が無くなる、人間の杜撰な乱獲で絶滅の恐れがある動物たちが数多くいる。

このままでは動物たちが死んでしまう。
な、何かした方が良いのかな。
でも私には、何ができる?


その瞬間、京都で豚肉とかつお節を抜いた知人のことを思い出した。

あぁ、あの人はこの世界が見えていたのかな。私よりもずっとずっと世界を感じて生きてきた人なのかな。初めてあの知人について深く考えを巡らすことが出来た。そして同時に「お肉、あんなに美味しいのにな、私には無理かもな」とどこ吹く風のように気にも掛けていなかった自分の浅はかさと稚拙さに恥ずかしくなった。

彼がどうしてベジタリアンになったのかは知らない。もしかしたら私が想像している理由とは全く違う理由でそう在るのかもしれない。それでも私からすれば、彼は私よりも広い世界を見ている人なんだと心の底から思えたのだ。


私には無理だ、だったら。


私はあの知人のようなヴィーガンやベジタリアンにはなれない。無理だ、ごめん、お肉、美味しいもの。すみません、焼肉大好きです。
しかし、だからといってこのまま何もしないのは嫌だった。この先自然が失われ、野生動物たちが居なくなっていく未来も止めたい。そして焼肉も食べ続けたい。カルビうめえ。

どうしよう、何をすれば。
自分の出来る範囲で、自分が出来ることをやっていくしかない。

私は「OUR PLANET」で最後に流れた広告部分でリモコンの停止ボタンを勢いよく押した。画面には自然保護団体へのURLが映し出されている。私は一心不乱にそのURLをスマホで叩いた。

◇◇◇◇

WWF
World Wildlife Fund、世界自然保護基金。
パンダマークが印象的な、世界最大規模の自然環境保護団体である国際NGOだ。私のスマホ画面はWWFの日本支部のサイトへ飛ばされた。


「あなたの支援が必要です!」

そう書かれた文字を見て「そうだよね、分かってる!」と頷き、私は財布からクレジットカードを取り出し、毎月寄付をするサポート会員になる登録をしていた。

ほぼ衝動に近かった。私は自然と動物たちを見守る少しの意志を毎月買うことにしたのだ。意志のサブスクである。無関心ではいられなかった。

よし、よし!

登録を済ませた後、ソファーにスマホを放り出してドサッとベッドに横になった。別に大したことはしていない。ほんの少し、1日のランチ代を毎月送るだけだ。たったそれだけのことだ。
しかし私の心には、ぽたりとインクを零したようにじわりと広がる高揚感と達成感、そして少しの嬉しさが心の表面を覆っていくのが分かった。


じわじわと床上浸水を引き起こして


現在、寄付を始めてから2年ほどになる。
いまも毎月小さな意志を買っている。

ヴィーガンやベジタリアンなど菜食主義を否定するのではなく、お肉を食べる権利を高らかに主張するのでもなく、純粋に自分の手が届く範囲で出来ることをやり、世界の問題に片足でも突っ込んでいく姿勢が大切なのではないかと感じている。私の場合は片足ならぬ片足の小指程度だが。

とまぁ、こんな格好をつけて何かを言っているが、実際には全く予想しなかったことが寄付を始めて1年ほど経った頃に起こった。
その頃私の世界では、鬱屈した雨が断続的に降り注ぎ、じわじわと床上浸水を引き起こしていた。上の階に避難をすることもないまま、私は泥水と共に生活しているような心境だった。

私は生きることにほとほと疲れてしまっていたのである。

◇◇◇◇

恥を承知で白状すれば、生きる目的、生きる意味を完全に見失っていた。生きているけど生きてる実感がない。今後これをやりたいとか、こうしていきたいとか、そういった種類の願望や希望を一切持てなくなっていた。原因不明の湿疹に悩まされ、とにかくただただ惰性のまま毎日を生きていたのだ。

湿疹があまりに酷いので皮膚科を受診すると「ストレスですね。元気が出るお薬を処方します」と言われた。まさか皮膚科で精神科を受診したような診断を受けるとは。私は薬を飲まなければ元気になれないのかとショックであり、恥ずかしくもなった。堕ちたな、自分、と素直に思った。

日本とは素晴らしい国である。
日本にいる以上、少しのことでは生命の危機を感じない。

いつも通りにとりあえず何か食べて、寝て、起きて、そしてまた食べてと生存に必要な作業を最低限成していればまず死にはしない。数十年生きる作業のルーチンは体に染み込んでいる。それらを機械的に行っていれば生きていけるのだ。

中途半端だった。特別生きたいとは思わないが死にたくもない。しかし何の感情もなく、何も生み出さない日々は生きているのか死んでいるのかもよく分からなくなっていた。生存という作業を毎日行なっているだけだった。

そんな抜け殻のような毎日を送っていたときに、とある封筒が届いた。WWF、世界自然保護基金の活動報告書だった。



なんて、かわいいペンギンなんだろう。


寄付をしている会員には定期的に活動報告書が届く。そこには、現在の自然破壊問題や、「こんな動物がいます」という動物紹介、寄付のおかげで「こうした活動が出来ました」といった内容が書かれている。

私はこの報告書を見るまで自分がWWFに寄付をしていたことを忘れていた。しかも寄付を始めて1年が経っているではないか。新しい会員証も同封されてきた。
報告書にある「寄付のご協力ありがとうございます」という文字と、会員証の裏に写っているペンギンの写真を見たとき、静かになにか熱いものを感じた。

会員証の裏にあったペンギンの写真


なんて、かわいいペンギンなんだろう。

名前もどこにいるのかも知らないが、とても愛らしかった。そしてふと「...私、もしかして、この子の役に立ててる?」と思った。

するとなぜだろう。
「...うーん、このペンギンの為にまだ死ねねぇな」と思えてきた。

私が死んだら寄付する人間が一人減ってしまうではないか。それはよくない。私は私のことはまぁどうでも良いが、このペンギンのことはどうでも良くない。そうか、私は生きてお金を入れなきゃな。このかわいいペンギンの為だ。うん、そうだな、じゃあ、仕事、がんばるか!

不思議だった。

私自身には大して価値はないのだけど、報告書に写っているライオンとかトラとか、オットセイとか、そういう必死に生きている動物たちの糧には本気でなりたいと思ったのだ。

本音を言えば寄付を始めた当初は、私は寄付をしている自分に少し酔っていた。驕っていたのだ。
どうよ、私って偉いでしょう?こんなこともしているのよ。
素晴らしい人間でしょう?なんて。

恥ずかしい。
私は所詮浅い人間、稚拙な人間だった。
これこそ、「穴があったら入りたい」である。


救おうとしてたら、逆に自分が救われていた


私は寄付という善行で勝手に自然やら動物たちを救うつもりでいた。しかし蓋を開けてみれば私自身が彼らに救われていたのだ。彼らの存在があったからこそ、私はまた生きる気力というか、活力をもらえたのだ。これが推し活というやつか?なんと広大な推し活。地球規模とか、滾るじゃん。

正直生きていくのは疲れる。誰かが救ってくれるなら救ってほしい。みんな誰かに縋りたいのだ。しかし悟った。

「自分が救われたかったら、まずは誰かを救おうか」

何やら同じような考えを仏教やキリスト教でも聞いたことがある気がする。『与えるから与えられる』。なんだかスピリチュアルな結論になって鼻をかきたい気分だが、そうなのだから仕方がない。

よし、分かった。
誰か私を救ってくれ。その為にまずは私が誰かを救う努力をしよう。やってやろうじゃないか。

そうやって、少し気分が落ち込んだときや、何か上手くいかないときには自分から誰かを支援するような行動を取るようになった。子ども食堂に寄付してみたり、ふるさと納税で震災のボランティアで行った東北地方を選んだり。

誰かを支援することで私自身が救われるのだ。

人によってはこれを偽善と呼ぶかもしれないが、この際どうでもいい。私自身が「なんか偽善っぽいよな」とも思うのだから仕方がない。ですよね、である。だた偽善と言われようと自分でもそう感じていようとやはりどうでもいいのだ。

お金とは実にシンプルだ。
私が払った千円やら二千円やらで世界のどこかで木を植えられてゾウが涼む木陰になったり、顔も名前も知らない子どもが夕食に白米を食べられる未来が確実にあるからだ。
その未来を思えば、それが偽善だろうが善だろうが些細なことはどうでもいいのだ。プラグマティズム万歳である。

◇◇◇◇


「救おうとしてたら、逆に自分が救われていた」

よくある陳腐でチープな台詞だが、本当にあるんだなと私は身をもって実感してしまった。陳腐ってそれほど嫌いでもないのかもしれない。

他力本願な私は「誰か私を救ってくれや」と思うことが多々ある。そう思ったらまたどこかに寄付でもしよう。私は自分が救われたいから、動くのだ。なんというエゴの塊であろうか。ブッダもイエスもそういう意味で言ったのではないと怒るかもしれない。大丈夫です、絶対的な見返りが欲しいなんて思ってません、ただ良ければほんの片足の小指程の徳をお与えくださいませとぴえん顔で頼んでみるのだ。

そんな私をブッダやイエスが呆れて「ほらよ」と言ってくれたのかもしれない。数年ぶりに活動を再開した推しの舞台のチケットが当たったりした。アーメン!南無阿弥陀仏!ありがとう!

焼きそばを頬張りながら私の質問に答えてくれたインド人の知人、ありがとう。
私一人なんかが、と躊躇いながらもサポート会員の登録をした過去の自分、よくやった。

振り返るとどれも些細な出来事であったが、これらの一歩が間違いなく私の見える世界を変えたキッカケとなった。私はこの新しい視界から世界を見て、これからも出来ることをやっていこう。
その結果として、「OUR PLANET」で観たあの美しい大自然と野生動物たちが安心して過ごしていける未来があるなら静かに笑いたい。

そんなこんなでチョロっとコロッといってしまう私は今後も人生何か上手くいかなくなったら、気軽に誰かを支援していきたいと思う。

そうすれば私を救ってくれたあのペンギンが、また私の前にひょっこり顔を出してくれるかもしれないのだ。

そうなったら、私はとても嬉しい。



サポートをしてくださる方を募集されています


以下団体はサポートしてくださる方を随時募集されています。もし興味があったら少しでもご支援をお願いします。

世界中の自然と動物たちを支援する活動をサポート出来ます。よく保護猫とか保護犬とかの活動は目にしますが、世界にいるライオンとかゾウとかにも支援が必要だと感じています。

ここに寄付をすれば全国の子ども食堂へ寄付ができます。お腹を空かせている子たちが白米をいっぱい食べられる未来があると嬉しいです。

今後の創作活動や新しい記事制作のモチベーションに繋がりますので、この記事が良いと思われましたら是非サポートをよろしくお願いいたします。泣いて喜びます! サポートいただいた金額の一部は動物保護団体と子ども食堂への寄付に充てさせて頂きます。