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今宵は、劇団MAFF朗読公演「父と暮らせば」を鑑賞しにみくに未来ホールへ。
山田 侑紀さん、齊藤文哉さんの熱演。
総じて大変良かった。二度ほど涙ぐんだ。
純粋に舞台を楽しんだ。

その上で自分事に落とし込みながらも観た。
自身の「銀河鉄道の夜」朗読公演からちょうど二週間。
同じ月に同じ会場で同じ朗読の公演。
二週間前の自分自身の公演を客観的に感じるという意味合いもあった。
読み、題材、全体の構成、照明・音響などの演出も含めて非常に興味深く、多くの学びや気づきが得られた。今度やるときは真似しようと思うところが沢山あった。

舞台後半、劇中に宮沢賢治の話が出てきた時は驚いた。関係ないようで関係があって、なんかこういう偶然が面白く愛おしい。

そして同時に一歩下がって広い視野でも捉える。
人口約21,000人の小さな港町に、劇団があって、劇場があって、お客様がいらして…これは当たり前でなく、すごいことだなぁとまず持って感じた。
これも20年以上前、かつて高校生だった人たちの「演劇がしたい」という熱い思いを、声を届けたから。そして旧みくに文化未来館の職員の方々がそれを受け止めてくれたから。そうして出来上がった劇団MAFF。さまざまな時代を経て、現在も受け継がれている。

観劇しながら、《朗読》と《芝居》の違いについて、ふと考えた。
僕は朗読というものを朗読家の方から専門的に学んだわけではない。自分の中に確固たる朗読表現のセオリーや型があるわけではない。
朗読家の方々が「これは朗読じゃない」云々と語っているのを目にした事がある。そう考えると今回の舞台は『朗読形式の二人芝居』という理解であった。
《朗読》と《芝居》は、音楽表現に置き換えれば《リート》と《オペラ》のようなものかもしれない。それぞれ表現のアプローチが違う。
しかし、リートの中でもオペラティックに感じるものもあるし、どちらもその作品や時代によって変わるのが自然だ。
となると、セオリーや型をある程度は大切にしつつも、それをひとつの絶対的基準として評価するのは、なんだか野暮だなぁとも思った。笑
イタリアンであれ、フレンチであれ、美味しければそれで良い。イタリアンであることそのものが目的化するのは何か違う。

(作品に合わせた、あるいは)自分という楽器の音色に合った作品や表現、舞台づくりを模索していきたい、と感じた。

この街には、こんなにも素敵な場所がある。
表現したい若者がいる。
演劇、音楽、美術、書道、写真、映像、舞踊、バレエ、ダンス、スポーツ…あらゆる表現活動を求める人がいることは豊かなことだ。
消費する側ではなく、生産者側にいた方が人生は圧倒的に面白い。(もちろん人によるf^_^;)

各分野の熱量を持った人たちが、それぞれの分野の中で命の炎を燃やしながら、その上で有機的な横の繋がりを作り連携できると、文化の輪がより広がりを見せて、街の力、人々の生きる力に変わっていく、そんな気がする。

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