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Weil-ith aphorisms 2

1.溺れているからといって、安易に藁を掴みたくはない。黒い濁流に飲まれてもなお、私は気高く溺れていたい。ここにおける藁は、むしろ信仰とは程遠い、粗末な充足にすぎない。

2.現存在にとっての世界はplasticで出来ている。世界そのものが歪な傲慢だ。だからその傲慢さに気付かされたとき、人はそこから少しでも抜け出そうと、絶対的な外部、すなわち他者を探すようになる。神と私は「他者」として接触する。

3.その弱さを、憂うる人であるべきだ。簡単にそれを人に明け渡して、緊張から逃げ出さないようにするべきだ。弱さの連帯は、仮初めの安心を与え、その人を簡単に『強く』してしまう。連帯の誘惑に耐え得るような『強さ』を持って、弱いままであり続けること。それが、救済への第一歩になる。

4.個性など存在しない。あるのは不均衡のみだ。差異とは、互いの契約不履行が生み出した、歪な執着に過ぎない。

5.奴隷化と報復。2つのアナーキー。均衡願望。想像による充足はルサンチマンのそれだが、行動によって均衡へ至ることもまた、不可能である。

6.しかしまた、不均衡を願い行動することもあり得ない。過剰の不均衡は溢れる(悪の自覚から逃れる)のだし、欠如の不均衡を自ら生み出すことには耐えられない。不幸とは、巻き込まれる形でしかあり得ない。

7.よって、現実においては、不均衡であることから逃れることはできない(均衡は想像上のものでしかない)。しかし過剰の不均衡は、真空に出会うことがないがゆえに、高邁な動機にはなり得ない。では、手を差し伸べる余裕のある者による寛容は何処より生まれ得るか。しかし、痛みを知る者の勝利ですら、報われたことによりその気位が下がる。

8.神の恵みはあらゆるところに及ぶ。及んでいないところがないのだから、その恵みは何ら特別なものではない(無限が0と同じ意味を持つように)。なればこそ、神の光しか及ばぬ所を見るべきではないかと、私は想像する。むしろ影や虚空、悪にこそ、汚れなき霊性の一端が見えるとは考えられないだろうか。

9.目的論的関係の解体のために、目的と結果の一致を願うことはよくある。しかし、同じ事柄の別の側面に目的と結果があるならば、それは解体とはならない。その場合、寸分違わぬ一致は可能か。

10.常人は反省することがない。ゆえに彼らは現在のみに生きる。悲惨な人間のみが、過去と未来に手を伸ばし、それを慰めにする。真空は、その二つの人種の、ちょうど中間に位置する。恩寵は「刹那の永遠」として与えられる。

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