E176:納税の義務とミスプリ
【連続投稿: 96日目 ライランⅡ: 7日目】
何かの拍子に、ふと思い出してしまう新人がいる。
その人は、決して出来が良い後輩はなかった。
むしろ、新卒で入ってきて、何から何まで学生気分で、かなり手を焼いた新入社員だった。
大変だったのだけれど、それでいて、なんだか人懐っこくて、結局は素直で、優しい人で、放っておけないというか、手を貸してしまうというか、今でも印象に残る後輩の1人である。
名前を、「あかねさん」(仮名)としよう。
夏になると、決まって思い出すあかねさんのエピソードがある。
………………
もう20年以上前の6月のある日。
当時私は30代、あかねさんは入社2年目。
カツカツと足音がして、私のデスクの前で止まった。顔を見なくても足音でわかる。あかねさんだ。
「源太さん、聞いてください、大変なんです!」
(あんたは『ホテル』の高嶋政伸か!あれ?古すぎてわかんないか…)
彼女の「大変」な状況は、その前の年に山ほど経験しているので、私は少々のことでは驚かなくなっていた。その時も普通に返事したのを覚えている。
「はーい、どうしたの?」
「あたしの給料明細にミスプリがあるんです!!」
近くで仕事をしていた人たちが、一斉に顔を上げた。
「それは大変だけど、なんで俺に言うの?」
私の質問に、何人かが吹き出した。
そうなのである。本当にミスプリなら、その担当部署があるんだから、そこに行けばいいのに…。なんで私に言うの?
まぁいいや、私はいつも聞き役だ。
「それで、どうしたの?」
「新しい項目が書いてあるんです。住民税って書いてあるんです。それで勝手にお金が引かれてるんです。おかしくないですか?」
勝手にって…。笑笑
あー、なるほど。これは新人あるあるだ。
大体言いたいことは見当がついたが
改めて質問してみた。
「それが、どうしたの?」
「だから、ミスプリですって!」
もう、どうしてもミスプリということにしたいらしい。
「なんで?」
「なんでって…。ミスプリじゃないですか。だって私、所得税も払ってるんですよ。その上なんで住民税までとられてるんですか?」
「みんな、そうやで」
「え?えええ!?」
彼女、いちいちリアクションが大きいのである。
「あなた●●市に住んでるでしょ?」
「住んでますけど…」
「だから、●●市に税金払わなくちゃいけないんです」
「ええええ?そんなのおかしいですよ。今までそんなこと一言も言われたことなかったのに!それに、去年だって働いてたのに、こんなもの引かれなかったですよ。なんでですか?急に税金の制度が変わったんですか?やっぱりミスプリでしょ?」
「まぁ、まぁ、落ち着いたら?」
みんな仕事をしている「ふり」をしているが、私たちの会話をずっと聞いている。そして何人かの人の肩が耐えきれずにずっと震えていた…。
「住民税、っていうのはね、前の年の所得で決まるんです。去年もあなたは働いていたけれど、その前の年は学生だったから、去年は働いているけど、住民税がなかったんです」
「じゃあ今年は…」
「そう、去年の所得から計算された住民税を今から払うんです」
「住んでるだけ、なのにですか?」
納得いかない様子。
「それが住民税やからね、あなたは●●市に住んでいるから、稼ぎがあったらそれだけで税金を払わなきゃいけないんです」
「どうしてですか?」
「…えっとですね。『国民の義務』だからです」
もうかなりの人が、私たちの【すっとこどっこい】なやりとりに笑いをこらえているが、彼女は真剣なのである。
「払わないとどうなるんですか?」
「えと、憲法(第30条)違反です」
「きゃー、それ、大変じゃないですか!」
「そう。大変ですね。じゃ、払おうか笑」
「…はい、そうします。税金て、所得税だけじゃなかったんですね。はあ、あの……源太さん」
彼女はちょっと遠い目をしていた。
「なんですか?」
「…働くって大変なんですね」
「そうやね」
彼女は背中を丸めて自分のデスクに帰っていった。
…………
この子、何も知らないんだなぁ、と
顔をしかめて驚いている人もいたけれど、
私は、こういう会話って大事だと思ったのだ。
確かに、彼女はものを知らなさすぎるところもあったけれど、それをちゃんと、質問してくるところは、評価してもいいのでは…。
ただ「どうしてこうなってるんですか?」
と聞くのではなくて。
「ミスプリです!」と騒ぎ立てるのは困ったところだったけれど、それも含めて彼女だった。結局、こうやっていまだに夏が来るたびに思い出す。
あかねさん、どうしているかな?
年齢的に言うと、もう介護保険料を払っているはず。
「介護保険ってなんですか!去年まで引かれてなかったのに!ミスプリです!」
なーんて言ってないだろうか?
ちょっと心配になる。。。(苦笑)
彼女は職場を去る時、同僚に1枚1枚、心のこもった感謝の手書きのメッセージを書いて手渡してくれた、
…彼女はそういう人だった。
仕事はできる方が良い。
いろいろ知っている方が良い。
けれど、やっぱり人柄も大事。
「あかねさん、タクシー呼んでおいて」
と言ったら、寒空の下、歩いて10分の
大通りまで、出て行こうとした人である。
「へえ、タクシーって、わざわざ外で捕まえなくても、電話して呼ぶこともできるんですね!」
大変だった新人さんは、それ以降もたくさんいたけれど、今になって会ってみたいなと思う人は、
今のところ、あかねさんだけだ。
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