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ゆずり葉。

先日、長女さんのホロスコープを美紀さんに調べてもらいました。


その少し前に、FACEBOOKで紹介されていたゆずり葉という詩を読みました。この詩は、河井酔茗(1874年~1965年)さんの詩です。

まずはその詩を転載します。

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子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ、
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。 

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作者さんの生きた時代は治安維持法により様々な弾圧が起こった非常に苦しい時代だったそうです。その時代に生きておいてなお、この詩を読むに至った心情を想像すると、私は胸が痛むと同時に、とても厳しい現実の中で、最後に残るのは祈りなのだ、と感じます。

彼は決して、この通り美しいものだけが受け継いでいかれることはないと知っていたでしょう。自分たちが間違えて作り上げてしまった厳しい社会を子どもたちに引き継ぐことに自責の念もあったのではと思います。

それでも精いっぱい、光多い人生であることを祈る。親として願うことは子どもの幸せだけれど、その子が幸せになることをかなえるのは親ではなくその子自身なので。

もちろん、社会を変えていく努力も、大人としての責任だけれど。

子どもにはただ、幸せであるように、と祈ることしかできない。


話戻って、長女さんのホロスコープは、なかなかハードアスペクトたくさんで、この10年ほどを見ていると、確かにそんな感じだなぁと思い当たる節たっぷりでした。生まれた時、話し始めの最初の言葉が「こわいこわいこわい」だった彼女は、動くもの全般が怖くてたまらず、時間の経過や移動距離にもすごく敏感です。とにかく、物質的な生き方に全くなじめていないご様子。その割には、なんかいつも楽しそうで、ふわふわしていて踊るのが大好きなので、とても不思議なのだけど。

この子、もしかしたら地球に生まれてきたん初めてなのかな?

などと思いながら接していましたが、少しずつ地球になじむうち、この子と私は全く違う人間だということを段々わたしも知っていきました。

でも今回ホロスコープを見て私は初めて気づいたことがあります。それは、この子自身に持って生まれた課題があるんだということ。
別人格だとは思ってきたけど、私は心のどこかで課題など持たず平穏で無事な人生多くってほしいと願っていたのだと気づきました。

でもそれは全くのエゴです。

人が人として生まれてきた理由は、魂的成長と、生命に対する貢献。

そのために課題が必要だし、彼女にもわたしにも、全ての人は課題があるから生まれてくるのです。

だから、大人が子どもにしてはいけないことは、その子が自身の課題と向き合えないようにすることだと感じます。

親が自身の課題にきちんと向き合わずに、無意識のうちに子どもへと受け継がせてしまうこと、きっと多いです。

そうならないように、私の課題を私自身でクリアできるように、とにかく取り組むこと、それが私の親としての仕事なんだと、改めて感じました。

いろいろ、その日、美紀さんとお話ししながら…。

いずれわたしたちは子どもたちに、すべて引き継いでもらうのだから。

そのために今、何をすべきなのか。一瞬一瞬、真実を選べるように。

というても、わたし実はバカなので、深く考えることができません。

自分なりに、一生懸命やるしかありません。

娘が何を感じ、何を思うのか、何を体験し、何を味わうのか、それを私が知ることは決してできない。

けれど、私が彼女たちに語りかけるとき、せめて感情に乱されず、思考に惑わされず、そんなときがあれば気づいて反省し、また愛に立ち戻り、いつでも愛に基づいていられるように。


そんなことを感じていた矢先、言語造形化の諏訪さんと、自分自身にとって言語造形とは、今取り組んでいる大和言葉とは何なのか、という話をしました。その中で見出したのはやはり、わたしは子どもたちに伝えることは全て、音韻に込められているから、言語造形は私のとって、親子としての在り方を問うためのツールなのだと感じました。

今、健全でいられているか、不健全なのか。

音韻にすべてが宿っているのです。

わたしは、子どもとのかかわりを通して世界を見ています。

生命そのものあり方を、家族という最も小さなコミュニティの中でいつも問うています。

決して、自己肯定感を得るために人を利用することのないように…。

といっても、オールオッケーではあるんですけどね!


今日は、えんげき塾の練習に久しぶりに参加して、人が集って一つのものを作り上げるのはとても気分がいいなぁと再確認しました。

久しぶりだったものでね。

さぁ、本番まで一か月を切ったどー!

いい感じに仕上がっているので、ご興味のある方どうぞ来てください!

宣伝して終わる。


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