『ドラえもん』は個人の内的成長を描いている説。
冬至の公演、古事記の傳へが無事に終わりました。
ご来場いただいた皆様、応援してくださった皆様、チラシ配布にご協力いただいた皆様、少しでもこの演劇に興味を持ってくださった皆様、こころから感謝します。
ありがとうございました。
昨年の生誕劇後に訪れた感情の乱れなどは全くありません。
公演中から今まで、常に心の中が凪ぎいています。
終わってからも日々、いろんなことがあり、感情も動きますが、内面はいつも静まり返っています。
それは、温かい温泉に浸かり続けている感覚。
源泉をたどれば、わたしが生まれてきた場所。
その温かさを感じる身体は丹田のあたりかな。
生命の源です。
それは、感情という個人の持ち物とは全く異なり、全体というゆるぎなさ。
絶対的な肯定感、わたしは常に孤独ではない、という実感です。
その静けさこそ本質なのです。
源は常に静かなのです。
源は静か。
みなもとしずか…。
うん?
しずかちゃん・・・・?
あれ?静香ちゃんの姓って確か源だったよね?
藤子不二雄さんってもしかして、源は静かであることを知っていたのかな?
ということは、のび太=自我(エゴ)だとすると、静香ちゃん=生命の源に恋をしていることも納得いくな。
それでいえば、何でもかんでも助けてしまってむしろのび太の成長を妨げているドラえもん=真我(ハイヤーセルフ)といえるかも。
あー、じゃあ出木杉君は理想的自己だし、ジャイアン=粗暴性(感情)、スネ夫=社会性(本音と建て前)なんだな。
社会的意識が感情の太鼓持ちしてるんだなぁ~。
もしかして「ドラえもん」って、登場人物全員合わせて一人の内的世界の成長を表しているのかしら??日本の昔話やグリム童話と同じように…。
おお~!!そう考えた方が辻褄合うかも!
もしかしたらこの説って既に有名なのかな??と思って検索してみましたが、ヒットしません。
あれ、でもこう考えた方が納得できません??
どうだろう??
どうだろうっていわれてもな…話が突飛だろうと、自主的にツッコミを入れてみますが、なかなかいい気付きを得られた気がするので書いてしまおう。
面白いことに気づいたぞ!
これから私はこういうふうにドラえもん見ていくことにしよー。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?