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書けない なんて言ったけど

ずっと(良くも < 悪くも)わたしはただ真面目で、「受験」というゴールがあった学生時代は、勉強ができる事が全てで、暗記が苦手なわたしにとって記憶(を欠落させないこと)が全てだったし、大学生時代は、論文を書くとき前提となる気づきのための熟考や筋道の通った言語化の上手さ(これは決して巧さではない)が全てだった。と振り返って思う。学内では秀でていたこと、才とはいえない小手先のものが、社会で役立つかと言われたらそれは否であるし、じゃあわたしという人間を良くしているものかと言われたらそれも否である。忘却が怖いし、上手く言語化できないことのもどかしさや苦しさも、こういった変な真面目さの影響が強いのではないか、と思う。


就職の面接のために用意したわたしの人格、悪くいえば顔色を窺えてしまうところや、自分の優先順位を下げて全体のためにあることを善と思い込んでいるところは、正直わたしの家の家庭環境がもたらしたものであると思う。すり減らされていく母と向き合うことはわたしもすり減っていくことだった。そんな中で造り上げた言葉だからか、こうやってまた他人の所為にする、性格の悪さを思い知らされる。


こういったことがわたしの希死念慮を燃え上がらせるための炭になってしまっている。
わたしは今日まで何をしてきたんだろうか。
全部、その社会において、その社会の上の人の都合のいいようにできた「わたし」であるなぁと思えてきた。
母から欲しかった言葉は、わたしはいつも頑張っている ということと、わたしを愛していた ということだった。わたしはその人の都合の良さによって愛されると思い込んできたんだなぁ。午前11時23分、学生として最後の日の朝にこんなことを思って目が覚めてからのベッドで枕を濡らした一日の始まりだった。



正解は、美味しいものを食べるために生きてた でした〜!
家から10分のところに行けば、わたしは救われる、もっと早く気づけばよかった。


母が亡くなる前後で取り組んだ卒業論文(常に気が狂っていた時期だったが、論文に向かっている時はかえって正気でいられた)のテーマに、わたしは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を選んだ。もっとも論の主題は社会主義的なことであったが、わたしはナウシカが皆に向ける慈愛を見て、わたしはそうはなれないと苦しんだ。わたしが母に生きていて欲しい理由は全部わたしのエゴに塗れていて気持ち悪かった。卒論には書かないが、日々過ごす中で意識するテーマみたいなものとして、「利他って何だ?」がその頃あった。NHK出版の若松英輔著の本では、前提として自愛があって、その上で他に向けられる愛こそが利他であると論じられていた。わたしはどうしてもわたしを受け入れることができず嫌悪に走っていく一方で自愛を難しく思ってしまうから、その状態で他を思う行動はここで否定されたような感覚になった。

母が死に近づいていくのを見て、もともと強く希望していた就職先と別のところを選んで就活を終えた。これは母のための選択だった。入社式が明日に控えた今、母はもういないからこの選択は何だったんだろうと最近までよく考えてはその度に堕ちていた。雑な生活を良しとする父と弟との暮らしで、母譲りの完璧主義を誇るわたしは毎日、機嫌を悪くしながら掃除洗濯食事の準備片付けをしていて、一人になってシャワーを浴びるたびに、早く大人に、寛容にならねばならないなと反省して泣いたりしている。

喫茶店で、数ヶ月ぶりのよしもとばななを読んだ。そういえばよしもとばななはこういうことを書いてくれる作家だったなぁと心を撫でられる瞬間が、喫茶店に滞在していた一時間に何度もあった。
わたしは、よしもとばななの描く、主人公のマイナスの感情を省みる描写が好きだ。きっと彼女がわたしみたいな子を主人公にするなら、その主人公はきっとシャワーを浴びながら、「苦しんでいたはずのこの状況、かなり愛なんじゃ…?」と気づくだろう。苦味とも酸味とも言えない、きっとパフェの甘さが舌に残っているから感じるまろやかさのある珈琲を飲み干すとき、わたしはそう思った。

「何のために」ってこの歳で考えたって仕方がないことだ、きっともっと先に進んでから振り返って思うことなのだろうと、よしもとばななのエッセイを読んで思った。彼女のこのエッセイも、親を亡くしたときに書かれたものだった。

ある人にとっての「都合がいい」という感情は、きっと、そのある人 からわたしに対しあまり愛はないと思う。けれど、わたしがそのある人を思ってする行動や意識がわたしからのささやかな愛であるならば、それはそうとあたたかいことだと思う。これまでも、頼まれてもないのに少し早く出勤したり、気になったところを掃除したりすることに気持ちよさを感じるわたしだ、個人任意のロングトーンばかりをする吹奏楽部時代の朝練習が好きだった。ポイント稼ぎだとよく言われていたなぁと思うけど、それで誰かに好感を抱いてもらえて、その人との関係を豊かにできるなら、それって全然素敵なことだ、わたしはなぜそんなに意味ばかり考えているのだろう。
たとえもしそれが搾取であるとしてもわたしはそれに鈍感でいたい。多分ずっと他人から向けられる目線や評価ばかりを気にしすぎているのだと思う。大体のことはやっぱり自己満足なんだろうなぁと鬱気味になったからこそ思う。インターネットって何でそんなに「自己満じゃん」を悪口のように言うのだろう。少なくともわたしは、いちごの乗ったパフェと珈琲と、よしもとばななの言葉があれば少しだけ愛のあるわたしを取り戻せる。

ただ、今のわたしはまだ、ぜんぜん熟考によってどこまでも堕ちていけるわたしでもある。悪いけど「何かおいしいもの食べにいこうよ」という文句でSOSを発するから、そしたら一緒にパフェ食べて!車ならわたしが出すから!

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