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書けない


きっと鬱に近いものなのだと思う。
あたたかい言葉を綴る/連ねる以前に浮かべることもできなくなってしまった。ずっとわたしにかけられる言葉に執着していて、何も満たされない。その満たされなさは空腹の時みたいで、若干の吐き気のような感覚と小さくも止めどない怒りをわたしは日々手放せずにいる。

昨年末、母は癌に手を引かれこの世を去ってしまった。ちょうど昨年の今頃からずっと死が近くにいるようで風に煽られる蝋燭の火みたいにか弱く揺れていた。わたしの精神もその隣で揺れていた。わたしはどうにか消えずに今もいる。


卒業式には出なかったが、大学の教務課のやわらかな声の職員から「おめでとうございます」と卒業証書やらの入った袋を受け取った。少しの実感もないが、どうやら大学を卒業したらしい。わたしは大学で友達ができなかったから、SNSであたたかい言葉を遣うひとと甘味と珈琲を挟むことで友達になった。そんなひとたちが何度もわたしを掬ってくれて、そうやって大学生としての日々を必死に歩んでいた。その中でわたしは何度も何度も打ち砕かれて、自らの手でも打ち砕いて「あの時のわたしより好きでいられる」わたしを構築し続けていた。

そんな日々のことを、この機に書いておくべきだと思ったんだ。ずっと忘却が怖い。だって忘却って死みたいだ。呪いみたいだ。今ある感覚を記して憶えておきたい、そうやってなくさないでいたい。それに、示しておきたい、あの時のわたしより、きっと今のわたしの方が貴方も好きだと思うし。

でも書けない、

当たり前だけど、感情は全部混合物だ、純物質の感情なんてきっとない。(ひとりの人間もきっとそうなのだろうけれど。)わたしの頭の中にはいくつもの言葉がずっとあって、特に話す時、それが邪魔をして永遠に話を脱線させる、本筋を真っ直ぐに辿れない。かと言っていざ書こうとすれば正しく書くことが、すべての正しさであるように、殴り書かれた文字たちは線で消されたり、deleteキーで一文字ずつなかったことにされていく。それに、書くことは、自分の中から言葉を搾り出していく行為は、どこまでも孤独でどこまでも堕ちていける。書き上げられた言葉たちの連なりがわたしの結晶だ、一番正しくて、許されたものだ。
書くように話したいし、話すように書きたい。
正しく、気軽に。そうできたらよかったのに。

書けない。

忘却は確かに死みたいだ。でも死によって生はなかったことになるだろうか。忘れたことで、記さなかったことで、その感覚はなかったことになるだろうか。その日々はなかったことになるだろうか

ならない、確かにあったんだよ、でも書けない、だからもう書かない。いまは





きっと振り返ればささやかに煌めくから
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