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言葉にしにくい間合い:浅野いにお『ばけものれっちゃん/きのこたけのこ』

総合病院の待合で、名前が呼ばれるのを待ちながら、浅野いにおの短編集『ばけものれっちゃん/きのこたけのこ』を読んだ。14時の予約なのに15時半になっても名前を呼ばれない。混んでいた待合の人はいつのまにかほとんどいなくなっていた。

夏に浅野いにお原作の映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を観た。拙い言葉で語れば世界系ともいえるが、もっと《いま》を切り取っているように思えた。《いま》の何を切り取っているのかはうまく言葉でいえない。《不安》? 《よるべ》? うまく言葉にできない。

浅野いにおの『ばけものれっちゃん/きのこたけのこ』は、その言葉にできない微妙な間合いで出来ている。どの短編も「きっとこういうことがいいたいんだろうな」というものが垣間見えるようで、実際のところ、それでは掴みきれないお釣りを読み手が処理できない。少なくとも私には言葉にして処理することができない。

拙い言葉でいえば、その間合いを《文学》ということもできるけれど、それは何かを言っているようで、やっぱり何も言っていない。この何かを言っているようで、やっぱり何も言っていないようで、やっぱりそこには何かがある感触、というか手触りというか、さらに拙い言葉を重ねれば、刺激性のないヒリヒリとしたよくないものに心を覆われてしまったような気持ち。そんなものがある。

よくないものだと心は拒否したくもなるのだけれど、拒否しきれない。それは自分の中の何か大切な部分でもあるし、普段の生活では誤魔化したり気づかなかったりしているものだからだ。

改めてそんなものを突きつけてくれるなよ・・・とも思う。

ああ、そうだ。大友克洋の『童夢』を初めて読んでびっくりしたときの感覚に近いかもしれない。もう40年も前のあのときの「これはなんだ?」と思ったあの感覚に近い。

もちろん、まったく異なる作風なのだから、あくまでも私がそんな風にびっくりしているということでしかないのだけれど、人は言葉にできないびっくりを感じたとき、途方にくれるのだなと思う。

そうだ。いまの気持ちを一言でいえば、なんだか途方にくれているんだ。

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