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答えのない質問

高校生の頃、マーラーをよく聴いた。結構、暗い子だった。よく聴いたといっても持っていたレコードは小遣いで買ったハイティンクの1番とストコフスキーの2番だけだったから、特にその2つを繰り返して聴いていた。

ハイティンクのレコードを買ったのは、アムステルダム・コンセルトヘボウの1972年録音のものが廉価版であったからだ。なけなしのバイト代のお小遣いで買うものとしては廉価版が結構精一杯だった。当時、ハイティンクはどちらかといえば"若手"の指揮者だった、と思う。

ストコフスキーの方はなぜこれを買ったのか思い出せない。持っていたのは1974年録音のロンドン交響楽団、ソプラノはマーガレット・プライス、メゾ・ソプラノはブリギッテ・ファスベンダーだった。2枚組で値段もそれなりにしたと思う。でも、この曲の特徴である歌が始まる部分がとても象徴的で印象深く、大袈裟にいえばなんだか救われるような気持ちがした。

ハイティンクのレコードも、ストコフスキーのレコードも、どちらも今は手元にない。少し寂しい気がする。

レナード・バーンスタインとその妻フェリシアについて描いた映画『マエストロ』を観た。マーラーの5番と2番が印象的だった。特に5番の使われたシーンは映像として美しく象徴的に描かれていた。


白黒の描写、セントルイス・ブルースが流れるがパーティーのダンスシーンの途中から、音楽のセントルイス・ブルースだけがフェイドアウトし、代わりに5番の第4楽章がフェイドインしていく。

音楽はそのまま、庭で子どもを抱くバーンスタイン。画面が切り替わり、指揮をするバーンスタインの影が舞台の袖のカーテンに映り、その奥の暗闇に妻のフェリシアの姿が小さく浮かび上がる。

再び、庭のシーン。子ども達とフェリシアとバーンスタイン。幼い子どもは長女だろう。庭の簡易なパーゴラ(植物を這わせる棚)の中を子どもは奥の方へと駆けていく。

再び、舞台のバーンスタイン。スポットライトを背景にして指揮を終え、袖で待つフェリシアに駆け寄る。抱き合う二人。嬉しそうにするフェリシア。しかし、バーンスタインがカーテンコールのために舞台に戻ると、彼女の表情は次第に暗くなり、その表情に合わせて袖の背景も薄暗くなっていく。気づくとフェリシアは暗いレンガの壁の横に立っている。

マーラーの音楽はずっと続いている。画面は白黒からカラーに変わり、袖からこちらをまっすぐに見つめて立っていたフェリシアは、窓から外を眺める後ろ姿へと転じる。


映画の後半のマーラーの2番の教会での演奏シーンは、前半の5番のシーンと意味的に相似形なのかもしれない。

フェリシアは5番のときと同様、着席ではなく、舞台の袖に位置する場所から見ている。演奏が終わったとき、カメラはフェリシアの右肩の後ろ側からその様子が映す。

フェシリアの正面にカットが変わり、演奏を終えたバーンスタインがフェリシアに歩み寄る。今度は走らずに、でも早足で。そして二人は抱き合う。

5番のときと異なるのは、このときのフェリシアには台詞がある。フェリシアは「間違っていたわ。あなたの心に憎しみはない」という。バーンスタインは再び聴衆の前に戻り、それをフェリシアが見ている様子がフェリシアの肩越しに映しだされる。場面は変わり、病院の待合室。

5番と2番を使ったこの2つのシーンは映画全体を象徴する美しいものだ。

ブラッドリー・クーパーは、バーンスタインの雰囲気をよく演じているのだと思う。ただ、私には、それがちょっと過剰な演出で、形態模写のようにも見えてしまった。それが少し残念ではある。なので、2番の映画の中での演奏も、役者が熱演すればするほど醒めていく気がした。バーンスタインってこんな感じだったっけと。

その他の部分でも、映画の中のバーンスタインはどこか冷たく感じられた。バーンスタイン本人のあの誰もが愛さずにはいられないような笑顔、その形態模写が、私にはどこか怖く思え、映画への印象を暗いものにした。


映画を見終わった後、改めてバーンスタインの演奏でマーラーの2番を聴いた。私の中にあるストコフスキーの演奏よりも抑えが効いていて、それがかえって感動的だった。マーラーの2番を、改めて良い曲だなと思った。

気になったので、勢いでYoutubeに落ちていた本人の演奏シーンも観てしまった。教会でのマーラーの2番のシーンだ。私自身の結論は、映画の役者の熱演がやっぱり過剰だなというものだ。

吉田秀和はバーンスタインの指揮についてこんなことを書いています。

 指揮者バーンスタインの第一の特徴は、それが非常に逞しい活力にあふれたものだということだ。それは肉体的なエネルギーにあふれたものであり、そうして強烈な情緒を発散するタイプである。それも爆発的な衝動的なものというよりも、もっと持続性のある、粘り強いものだ。ときとして、粘っこくてやりきれないこともあるけれども、これは反射的、非省察的な性質のものではない。もっと、根本的本質的に、彼の人並み以上にすぐれた知性――音楽的知性にいたるまで一貫してあるものだと思われる。
 というのは、私には、これがバーンスタインの独特的なところかと思われる急所は、この強烈な情緒への傾斜が、同時に、いつも、ある種の非常に覚めた意識的な働きと結びついて働いているらしいことにあるからである。

吉田秀和『吉田秀和全集』第5巻, 白水社

映画の中のマーラーの2番の演奏シーンは、情熱的な形態模写だが、どこか知性という抑制が感じられない下品さを漂わせていて、それが残念だ。


映画の中の台詞で良かったのは、本人が自身の2面性について語っているところだ。演奏と作曲は、外に向かう部分と内に向かう部分というまったく異なる2つのベクトルを持つという話をするあたりだ。映画は彼の矛盾する振る舞いを描いていくし、フェリシアはその矛盾と自らの内面の矛盾を辛く感じているようだ。

1957年にバーンスタインはマーラーについてこんな風に語っている。映画の中のバーンスタイン/フェリシア/2人の関係を象徴するようだ。

マーラーのこの二重のビジョン〔生への強い愛と生への嫌悪、天国(ヒンメル)への激しいあこがれと死への恐怖〕は、その生涯をつうじて彼を引き裂いたが、それはわれわれがやっと彼の音楽のなかに認めるようになったヴィジョンである。

バーンスタイン『ハイ・フィデリティ・マガジン』1957年9月号

本棚に、なんどもの引越と断捨離をくぐり抜けた本がある。バーンスタインが1972年から73年にかけて母校のハーヴァード大で行った6回の講演録『答えのない質問』("Unanswered Question: Six Talks at Harvard”)だ。買ったのは高校か大学の頃だったと思う。講義の様子はYoutubeでも観ることは可能だ。

『答えのない質問』というタイトルは、チャールズ・アイヴスの同名の曲から取ったものだが、バーンスタインがこの講座で試みているのは「音楽とは何か」という「答えのない質問」について考えるという行為だ。

『答えのない質問』。それこそがバーンスタインが大切にしていた《問い》なのではないかと、当時の私は思った。以来、私も「答えのない質問」について、可能であれば、考えるようにしている。


レナード・バーンスタインとその妻フェリシアについて描かれている『マエストロ』という映画が、同じような《問い》を持っていたのかどうかはわからない。私は持っていたのだと思う。シナリオからも映像からもそう感じる。その《問い》へのひとつの形があの映画だったのだとも思う。

ただ、バーンスタインの『答えのない質問』を読んだときに私が受けた印象とは違う。私は、バーンスタインという人はもっと理性の人だと思っているのだ。

気をつけなくてはいけないのは、感覚的であることと理性的であることは二項対立ではないことだ。

私の記憶の中のストコフスキーの演奏よりも、後で聴いたはバーンスタインのマーラーの2番の演奏の方が抑えが効いていたと感じたのは、マーラーが書いた音楽へのバーンスタインなりの理解がそこにあるからかもしれない。

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