すべて忘れてしまうから・・・
燃え殻氏が書いた『すべて忘れてしまうから』を読んだ。いいエッセーだと思う。読んでいるとき何カ所かでちょっと目頭が熱くなってしまった。すべて忘れてしまうから。本当にそうだ。忘れてしまう。でも、覚えている。その境界に僕らは生きている。
あのときの、あの場所での、あの会話。それが本当の記憶かどうかはもうすっかり曖昧で、だからといってそれが大事じゃないというわけではまったくなくて、でも、それをこの後も覚えているかどうかも、なんだか曖昧で。
「そんなこと言ったっけ?」
「うん、言ったよ。」
「覚えてないなぁ~」
「覚えてないの?」
「うん、ごめん」
そんなことをドロシーともよく話す。でも、二人で戸田橋の花火を観に行ったときの、花火が上がるまでの陽がくれていくあの時間のドロシーの笑顔をいまでもはっきり覚えている、ような気がする。
新宿御苑もドロシーとよく行った。上記の引用したところは、この本のなかでいちばん印象的という部分ではないけれど、著者の記憶と自分の記憶が交錯して、なんだか普通な感じのところがすごくいい。
アラーキーの写真展は、子どもがまだ生まれたばかりの頃、福岡でドロシーとベビーカーを押しながら「A人生」を見に行ったっけ。
その後、何年かして両国の江戸東京博物館にも「東京人生」を観にいった。そこには、比較的若い頃の手作りの写真集「スケッチブック写真集」なども置いてあって面白かった。
1960年初頭からの東京の移り変わりは、自分が育ってきた周囲の様子とも重なる。ドロシーの子供の頃の写真、髪はゴムでチャコちゃんのように留めていて、おもての物干しに布団が干してあって、その前で妹と二人で取っている写真を思い出した。出来たばかりの団地の風景は、私の両親が見た景色なのだろう。
ドリフターズも王貞治も北野武も八代あきもみんな若くて、あるいは美濃部・石原の選挙ポスターの前に立っているアラーキーの写真も可笑しかった。アラーキーは帽子をかぶり、それを子供がはたいている。私とドロシーが卒業した小学校のプールは美濃部都政のときに一気に作られたものだった。大型スクリーンでは荒木が街の写真を撮りまくる映像が流れていて、その撮り方がまたものすごくせっかちな感じで可笑しかった。
図書館でアラーキーの写真集があれば、借りて来ようかなと思う。
訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。