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変化の予兆:パフォーミングアートの未来

音声合成の性能があがっていることにびっくりした。このリアリティ。量が質を変えることは何度も目撃したけれど、ChatGPTやDeepLと同様、質が変曲点を生むということもあるんだなと下記の音声を聞いてそう思った。変曲点まで、もう一息なんじゃないかと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=NGxiKl0YJ8U

ChatGPTの話題が《ホット》だが、2000年代初頭に比べると音声合成もかなりのところまで来ているんだなと思う。人のリアリティを侵食し始めていると言っていいかもしれない。

合成された音声に対してフェイクの拡散の危機を説くことは安易なほど容易だ。もちろん、それは忘れてはいけないことなのだろうが、呪文のように唱えるだけならばそれは既に手垢にまみれた問いのようにも思える。

だからあえて、これは表現様式の形態の一つだとみることはできないのだろうか? 写真や映画と同様に、技術が新しい表現様式を生み出すのかどうかという視点だ。

還元すれば、たとえば今はNHKの朗読の時間はアナウンサーや俳優という生身の人間が行っているが、その必然性は既に揺らいでいるということはないかという視点だ。技術の質はもう何年も前から少しずつそこに迫っていたのだろう。

このような技術の進歩を敷衍すれば、そもそもリアルにその場でという制約にさえ拘らなければ、やがてパフォーミング・アーツの演者は生身の人間である必要はなくなっていくのではないかとも思えてくる。

そんな話をドロシーとした。舞踏しかり、声楽然り。既に行われているモーションキャプチャーを利用した合成映像としての俳優もその通過点の一つなのかもしれない。

もちろん、どのような動きや抑揚が適切なのか、人の心を揺さぶるか、新しいか、アートか、というジャッジはまだまだ人の才能を必要としているとは思う。しかしそれもやがては境界が曖昧になっていくだろう。

空想してみよう。私たちはバーチャル大谷翔平がホームランを打つ映像を楽しむことができるのか。今はまだきっと、生身の大谷くんだからよいというのが普通の感覚だろうが、しかし、それは本当なのか? 本当に本当なのか?

リアル大谷翔平を見た人がどれほどいるのだ。東北新幹線の水沢江刺駅には大谷くんの等身大パネルが置いてあるが、奴はリアルにはデカい。しかし、私たちはそういう感覚なしに「今日の大谷くん」という穴埋めのような番組を見て「へ~」と思っている。私たちは彼の何をみているのだろう。物語か、それとも記号か? 記号であれば、バーチャルではなぜいけないのか?

こういう問いでもよい。ロボットに腕立て伏せをさせるということに意味はあるかの?

それを最初に問うたのは、ロボットアニメの「トップをねらえ!」ではないかと思う。初めてみたときには衝撃を受けた。機械に腕立て伏せをさせる意味はないからだ。しかし、では、高飛び込みに意味はあるのか? 高いところに登って、位置エネルギーを運動エネルギーに変えながら、回転したり、ひねったり。冷静に考えれば、バッカじゃないの?ということになる。いや、高飛びをすることはたぶん楽しいし、難しいし、身体を使う生物としての究極の喜びかもしれない。しかし、それを見る私たちにとっての価値はなんなのだろう。人が運動をする様子を観戦することに本当に意味はあるのかという究極の問いが「トップをねらえ!」の中には潜んでいた。

敷衍すれば、腕立て伏せ、朗読、声楽、ピアノ演奏、舞台、野球、ダンス・バレーと人が行うリアルのパフォーマンスの列が続いていく。

しかも、人は動物などを過剰に擬人化できる能力を持つ。Boston Dynamicsの犬っぽい奴が滑りやすい駐車場で蹴られて、よろけながら踏ん張る様子に、私たちは「おっとっと」と思わず声をかけたくならなかっただろうか。「ロボットだって蹴ったら可哀想」というニュースさえ流れなかっただろうか。 

Boston Dynamicsの犬っぽい奴だって、もう既にかなりのものだ。もう蹴られてヨタヨタするという感じではない。

練習(準備)すれば、ダンスを踊る。

え~、だって、振り付けのプログラミングって、手間がかかってお高いんでしょ? いいえ、奥様、そういうところにこそ、ChatGPTがお役に立てるんじゃないでしょうか。たぶん。

以下がそうして作られたとは思わないが、画像認識やモーションキャプチャの技術と組み合わせて、そういうことが可能になるのが遠い将来とは思えない。

だから、きっともう一息なんじゃないかと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=NGxiKl0YJ8U


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