見出し画像

啓発って・・・

啓蒙って「無知をきりひらき、正しい知識を与えること」だから、目的語を持つ他動詞っぽい言葉なんだろうなと思う。だから似たような言葉の啓発も他動詞だと思っていた。

だから辞書に、「啓発は、論語の「憤せざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず」からの言葉」と書いてあるのを見て、そうかぁ~と思った。

論語の言葉の意味は「学ぶ者が発憤して理解しようという気持ちにならなければ、それを啓発し教えようとはしない」らしい。なるほどなぁ~と思う。

「憤せざれば啓せず」っていうのが面白かった。辞書の解釈は発憤してということで、きっとそうなのだろうけれど、字面で私が感じたのは《プンプンしている奴》だ。何かを教わろうっていうのに《プンプン》しているのかぁ? ちょっと可笑しい。

「悱」は普段は使わない漢字だけど「口に出して言おうとしてもなかなか言えないの意)」とある。《モジモジ》くん?と一瞬だけ思った。けれどそのすぐ後ろに「気持だけは奮い立っているが、実行するきっかけをなかなかつかめないでいること。 口に出さないで、心中いきどおること」とあるから、マンガっぽくいうと《うぐぐぐぅ~》って感じなのだろう。

何にせよ、ちょっと怒っている風がある。

教える側はちょっと困っただろうなぁ~。なんかよくわからないけれど、相手はプンプンしながら呻いている。どうしたもんかなぁ~と私なら思う。

考えてみれば、啓発を他動詞とする義理はないのだ。そいつがどこで野垂れ死のうが、勘違いのまま生きていようが、enlight(光を内に)という感じでお節介をする必要はない。冷たいようだが、どうぞご自由にということだ。そう思わないからこそ孔子とかキリストは尊敬されている。それは皮肉ではなく、そういう人がいたことはありがたいことだと思う。

でも、もういちど、自分を主語に持ってくると、他人が《プンプン》したり《うぐぐうぅ~》って思っていても、それはそいつの問題で、だからこそ、自分が《プンプン》したり《うぐぐうぅ~》って思っているときに自動詞として、じゃぁ~どうする?っていう気持ちになる。

だって元の啓発の意味を曲解すると、そして相手を主語にして自分を目的語にすると、「それぐらいな気持ちになったら教えてやるぜ」だけど、そもそも私は「逆の立場では教えない」という側に立つので、教えてもらうことは《ずる》っていうことになってしまう。もちろん《ずる》してもいい。黙っていればわからない。でも、やっぱりなんだか気持ちが悪い。

そうすると結局、啓発は自動詞として、己でなんとかすることにしよう。でもそこで本を読んだら、先生に教えてもらうのと同じで、やっぱり《ずる》だ。かといって無から有をショウジさせるような力はない。どうする。

結論のない話だが、やっぱりちょっとだけ《ずる》をするしかないかな。本を読んだり、他の人と話したりというちっちゃな《ずる》をして、《ずる》で吸収したものを栄養になにかをでっち上げて、それでも「うーーん、なんかやっぱり違うなぁ~」と《うぐぐぐぐ》と《もやもや》する。

うん、きっとそれが私にとっての《自動詞としての啓発》なんだなと少し腑に落ちた。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。