見出し画像

オリンピックにおける価値

今日は朝、仕事前に土手を超スロージョギングで走ってみた。

結構、いい感じで走っていたつもりだったのだが、歩いている人に抜かれた。これまでも歩いている人に抜かれることはまま合ったが、今日は比較的調子よく走っているつもりだったので、少しショックだった。

土手にはヒガンバナが咲いている。ヒガンバナを眺めながら昔読んだ北杜夫のエッセイを思い出した。

そのエッセイでは、オリンピックの陸上競技で、6位になった選手のことを語っていた。折角、オリンピックに出場したのに、決勝まで残ったのに、6位。しかも、1位の選手からはだいぶ離されてのゴール。もう誰も見ていないゴール。

でも、考えてみると、その瞬間、彼は世界で6番目に速い人なのだ。そう北杜夫は書いていたように記憶している。その後、話は飛躍して、でも誰かが6位にならなければならない。みんな国の威信を背負い、これまでの人生をかけて出場しているのだ。誰にも注目されずにゴールしたいはずがない。6位になりたいはずがない。

だから、決勝にはかならず6位になる人を入れておけばよいのだ。名前は・・・忘れてしまった。北杜夫はもっともらしい選手の名前を考えていたように思う。『さびしい王様』のシャハジポンポンババサヒブアリストクラシーアルアシッドジョージストンコロリーン28世を、もう少しだけ短くしたような名前だった。そんな人を加えておこう。それが北杜夫の主張であり、やさしさだった。

そう考えると・・・ヒガンバナを眺めながら思う。歩いている人に抜かれることにも価値はあるのだと。

私を歩いて抜きさった人はきっと「ああ、この人はとても太っているからやせたいと思って走っているんだなぁ。でも、走るといってもなんだかなぁ。そんなゆっくりじゃダイエットにならないだろうに。でも太っていて身体が重いからあれが精いっぱいなのか。お気の毒に」と思っているに違いない。

そして「俺の歩く速さもまんざらでもない。一応走っている風な彼をぬいちゃうんだから。よしよし。やっぱり健康に歩くっていうのはこれくらいの速さじゃなくちゃな。健康でよかった」と思っているに違いない。

私はそうやって土手で小さな満足感を人に与える《善い人》となる。根がひねくれた一言居士なので口を開いては《善い人》にはなれない。黙って超スロージョギングで《善い人》になる。それは略せば超・人となるということだ。ニーチェだって、人間の精神の発展を「三段の変化」として表現して、駱駝から獅子、最後には「無垢」と「創造」の象徴である幼子となれと言っている。月の砂漠の駱駝のような歩みの超スロージョギングの私だって、いつの日か獅子と呼ばれるときが来るかもしれない。しかしその先には幼子となる。いまから先取りして幼子のような《善き人》となったとしても何事の不都合があろうことか。

そんなことを思いながら歩いていたら、いつもの道ではなく、近所のスーパーの前にいた。スーパーは大きなガラスがあり、そこには左右の幅と前後の幅がほぼ等しい円柱状の私が映っていた。《善き人》への道は遠い。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。