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可能世界

ずっと読み終えることができない本がある。何回か挑戦はした。けれど、いつでも途中で失速してしまう。奥付をみると2000年の第2刷のときに買った。確かにその頃、面白そうかもと思って買ったのだった。三浦俊彦『可能世界の哲学』だ。

ジャック・モノーの『偶然と必然』という本があるように、《必然》と対になる言葉は《偶然》だと思うのが自然なんだろう。

たとえば、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の中では、繰り返し"Es must sein!"(そうでなけれならない)というフレーズが出てくる。主人公たちの偶然の出会いと重ねながら、私たちは《偶然》と《必然》とを対置させたくなる。

一方で、"Es must sein"は、シンプルには"It must be"ということだし、『存在の耐えられない軽さ』の中で記述される《6回の偶然》は、もしそれがコインの表裏であれば2の6乗分の1、すなわち64分の1、1.56%の確率ということになる。

mustが《必然》的な何かを表しているとすれば、確率はそうであったかもしれない世界のうちのひとつ、すなわち《様相論理》でいうところの《可能世界》になる。

『存在の耐えられない軽さ』が、《軽さ》と《重さ》、《心》と《身体》という二項対立のようにみえて実際には不可分な《それ》を表しているとすれば、《必然》と《可能》は不思議な関係にある。

なんども挫折してしまう『可能世界の哲学』の、読みすすめることができる第1章・第2章には、そのことが書いてある。

すなわち、必然を□、可能を◇、否定を¬、命題をpで表すと、《必然》と《可能》の関係は以下のように書き下せる。

◇p ≡ ¬¬p(pでないことが必然でないならば、pは可能)
▢p
¬◇¬p(pでないことが可能でないならば、pは必然)

《必然》と《可能》のこの対称な関係が面白い。論理学は得意ではないので、だからなんだとか、その先はなんだということではないのだけれど、《必然》と《可能》をこんな風に記述しようする人の心の動きも面白い。

読みすすめると、《必然》と《可能》の関係は、《全て》と《存在》の話との類似性におよぶ。両者には似たような類似性があるというのだ。

∀xFx≡¬∃x¬Fx
∃xFx≡¬∀x¬Fx

こんな風に、話はどんどんと《可能世界》の(数学的な)構造の話へと進んでいく。

 そして、『存在の耐えられない軽さ』でこだわってかかれている《永劫回帰》という《無限の一回性》は、《一回性》という《ifの否定》によって、もはや《可能》でも《必然》でもなくなっていく。

そう考えれば、《テレザ》と《トマーシュ》と《サビナ》の《ifの否定》された世界での3項関係は、《必然》でも《可能》でもなくなっていくし、それは、人と人との関りという意味での《恋愛》という状態を記述する上でとてもわかりやすい補助線となる。 《フランツ》のキッチュ(俗物性)も浮き彫りになるし、《テレザ》と《トマーシュ》の2項関係の《ロマンチック》さも昇華されていく。私の中での妄想が拡がっていく。

ただ、いつもここまでなのだ。『可能世界の哲学』の第3章「可能世界とは何なのか」という議論あたりから落ちこぼれていく。ここでいつも止まってしまう。

でも、今度は大丈夫な気がする。カントの『純粋理性批判』をもう3/4のところまで、わからないなりに読み進めて来られたのだから。今回こそ、『可能世界の哲学』が読み終えられる気がするのだ。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。