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携帯交換俳句

新しい洗濯機を買った。年の暮れに、だいぶ長く使っていた洗濯機がいよいよ動かなくなり、我が家の洗濯の現場が崩壊するという瀬戸際まで追い詰められてしまったのだ。

新しい家電はいい。音も静かで、「なんだ、おまえ、こんな遅くまでまだ頑張って働いてたのか」と愛おしくなる。ドロシーも、「あんまり静かで、買ったばかりなのに壊れた! ウキィー!って思ったよ」と言う。

そして、ドロシーが10年越しでほしがっていた冷蔵庫を春のボーナスで買ったときのことを思い出した。

新しき冷蔵庫よろこぶ春の君かな

冷蔵庫を買ったときに作ったものだ。ドロシーに「これ、君のことだよ」というと彼女は妙に喜んでくれた。

俳句は好きだ。学生の頃、塾で国語を教えていて好きになった。今思うと、理系の学校に通う私が子供たちに国語を教えるなんてずいぶんだ。でも、お陰で国語がそれまで以上に好きになった。

春、突然、友人から携帯のメールに俳句が送られてきたことがある。

これまで、俳句は他の人のものを読むだけだったが、歳をある程度とると、お互いに厚かましさに磨きがかかる。交換日記ならぬ、交換携帯俳句をしばらく続けた。冷蔵庫の俳句もそのときのひとつだ。

それに、交換携帯俳句は、コミュニケーションの媒体としてかなり面白い。

きっと、携帯メールというコミュニケーション手段と交換俳句という組み合わせがよいのだろう。その特徴は、どこでも書ける、送れる、推敲できる、短いということにつきる。

そして何より、俳句が、極めて私的なコミュニケーションツールであることも思い出させてくれる。

共有した時間の思い出やちょっとした感覚を送った相手と共有できる。そこには、かならずしもほかの誰かとは分かち合えないニュアンスも含まれる。冒頭の俳句も相手がカミさんをよく知っているからこそ意味があるのだ。

出来はどうでもよい。だよね、というちょっとした共感が伝わればよい。いや、伝わるか、伝わらないかという微妙さが良いのかもしれない。5・7・5に言葉を乗せて意味のある文にする言葉遊び。しかも質より量。月並みだって気にしない。その方が楽しい。

季語は、携帯交換俳句で自分なりに唯一守ったルールだった。季語をいれようとすることが、微妙な制約条件になって、ちょうどパズルで遊ぶような感覚になった。冷蔵庫の俳句も、夏の君でも秋の君でも冬の君でもなく、春の君でなくちゃだめな気がする。

ただし、「季語は1つね」と学校では教わるルールは、遊びだから、あまり守らなかった。

好きな俳句に芥川龍之介の「木がらしや目刺にのこる海のいろ」があるが、目刺は春の季語だが、この句自体の季語は木がらし(冬)。この句はその組み合わせの微妙さがいい。

この句の前書きには「長崎より目刺をおくり来れる人に」とあるそうだ。前書きがあることで、余計に冬の季語としての「木がらし」と春の季語である「目刺」がいくる。だから好きなのだ。

また、携帯交換俳句をしてみたいとは思うが、残念なことに彼は他界してしまった。携帯がスマホと呼ばれるよりかなり前のことだ。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。