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生涯学習についてもやもやするとき
ずいぶんと以前、「《生涯学習》なのか《生涯教育》なのか?」という議論を聞いた。生涯にわたって学び習うのか、生涯にわたって教え育むのかの違いをその人たちは話していた。
英語だと、lifelong learningなのか、lifelong educationなのか。後者はもう少し丁寧にユネスコの提唱にしたがえば、life-long integrated educationということになる。私は、Life-long integrated educationという言葉が好きだ。
LearningなのかEducationなのか。前者であれば主語は私、目的語は内容(subjects)ということになるだろうし、以前の議論ではEducationだと主語が教える側になることが気になると話されていた。
しかし、Life-longという文脈で考えると、教え育む主語は《私》になる。その対象も《私》だ。少なくとも今の私は思う。だからLife-long integrated educationとは、私の視点からすると、《生涯にわたり、私が私自身を教え育む統合的な活動》となる。
しかし一方で、私は他人のLife-long educationに興味がない。「勝手にやってくれ」と思う。人が自分に対して何をどのように教え育むかは、その人の生き方の問題だ。私の問題ではない。
だから『おやじはニーチェ』という家族が書いた認知症の本を読んで、私はすっかり鼻白んでしまった。《家族である著者が何かを学んでいく過程を描いた本》で、それ自体は悪いことではないはずなのに、読後感は「なんだかなぁ~」なのだ。
たとえばこの本はとても引用が多い。当然だ。この本は著者の学びの履歴だからだ。しかし、いろいろなところで、なんだかなぁ~と思う。学びというより自我の表出のような引用にうんざりする。しかも、引用をきっかけとして手前味噌の理解や考えが滔々と述べられる。飲み屋で蘊蓄を聞かされているような気持ちになるのだ。著者のお父さんはすっかりおいてきぼりだ。
認知症に関する引用では、その引用元は医療者が圧倒的に多い。医療モデルと社会モデルの理解についてはあまり考えなかったのだろうか。キットウッドについてもずいぶんと手前勝手に解釈しているような気がした。
それに、著者はノンフィクションの物書きなのに他の当事者に尋ねてみるようなこともしない。まぁ、父を介した著者自身の《私》の学びの書なのだから、他の当事者に尋ねてみるのは冗長だというプロならではの判断なのかもしれないけれど、ウィングが狭いなと思う。時代ということを考えると、2023年に発売されたとは思えない。10年以上感覚が古い気がする。
結局、なんだかいろいろな本からの引用をつまみ食いしたようなコタツ記事を読まされているような気持ちになる。なんだかつまんないなと思う。見識が低いなとまで思えてしまう。
その背景には「困った父親を認められない私」がずっと見え隠れするからだろう。その自己認識が低いことが読んでいて辛い。それは父への問いの形が象徴している。それでいいのだろうかと思う。プロなのにダメじゃんと思う。本書は2023年に新潮社から出された。なんだか迷惑な本だなとも思う。
もちろん、著者の学びのプロセスは進み、少しずつ著者の中にさまざまな《受容》が生まれていくことは読み取れる。父と著者の会話部分だけを取り出して読めば、大切なことを著者が少しずつ学んでいることは明らかだ。
「良かったですね」とは思う。「でも出版する価値はあったんですかねぇ」とも思う。「世間にネガティブなスティグマを植え付けることにあなたは加担していないですか?」と批判的な気持ちになる。
私は、life-long integrated educationに賛成する立場に立つ。しかし、学びのプロセスは紆余曲折だ。間違った理解、不完全な理解を再帰的に補いながら、すこしずつ深めたり拡げたりするプロセスだ。そのプロセスを公開することには注意が必要なことぐらい分かるだろうに。
だから、やっとテレビでも《認知症≓不幸》という単純な図式が、さまざまな人の努力で少しずつ減ってきたというのに、「自らの学びを公開したい。なぜならそれには価値があるから」と思い込んでいるように私からはみえる著者の本は、二十害あって三利程度しかない本という評価に落ち着く。
それが父を描くというウエットな姿勢と、我田引水の引用を用いた理屈で行われるから始末が悪い。悪貨は良貨を駆逐するとならなければ良いと祈るような気持ちになる。著者のお父さんには申し訳ないが、それが私の正直な気持ちだ。
そうか、これは他山の石か。こういう社会のさまざまな出来事を思うとき、私は、生涯学習という言葉や意味について、私自身がまだまだ考え足りていないような気持ちになればよいということなのか。そういうことなのだ。
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