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今更ドラマ勝手にレビュー:『重版出来』・第7話(TBS 2016年5月24日放送)

<自分の伝えたいことを伝わるように伝えるための勇気>

 沼田(ムロツヨシ)の不幸、つまり漫画かきとしての最大の試練を生んでしまったのは、二十歳の時に神の差配によって「新人賞」を取ってしまったことだ。
 もちろん、これは普通「チャンス」とも呼ぶ。しかし、雑巾掛け時代に降下してくるこうした僥倖の危険なところは、「才能といふ曖昧な何か」が、「作品となる」ために必要なものを、見えにくくさせてしまうことなのだ。

 才能があると思いたい自分は、三蔵山先生(小日向文世)のアシスタントをやりながら、ネーム(漫画作品のストーリとコマ割りをおおよそ示したスケッチ)を描き続け、「俺のセンス」を幾人もの漫画編集者に示し続ける。これこそが俺なのだと。

  しかし、伝わらない。どうにも伝わらない。
 この時に、この先を歩む者たちには選択肢が二つある。

 ひとつは、「俺のセンスがわからん奴には伝わらなくてもいい。いつか、必ずそれがわかる編集者に巡り合うはずだ」と己に言い聞かせることだ。

 もう一つは、「伝わる邪魔をしているものは、きっと自分自身の中にある何かなのだ」と必死に探し、時には自分を部分的に殺しても進むしかないと、こうべを垂れることだ。

 前者は、「いつかやって来る日を目指して特別なことをやっている俺」自身に抱かれて生きている。就職もせず、食えないアシスタントをしながら漫画道を歩む ”クリエイティブな自分”だ、と逃げる。後でわかる。「漫画の中だけで生きていたかった」(沼田)のだと。

 後者は、自分と世界の両方に向いあう。本筋は曲げられないし、できないことはできないが、俺のセンスをわかる読者30人ではなく、”300万人に愛される作品”にするために、自分自身がよそよそしくなってしまうという恐怖や不安と戦いながら、何百回もネームを描き直そう、と。

 いずれも作品創作という仕事を深く愛する者たちだ。そして切なくも、どちらにあっても自分に本当に才能があるか否かがわからないのである。

 一つだけ決定的に異なるのは、後者には「ひとかけらの勇気」があることだ。それは漫画の才能ではない。才能があるかないかは自分が決めることではない。だが勇気だけは「たったひとりで」ふりしぼらねばならない。

 10年もの間、この勇気をふりしぼれなかった沼田の前に、漫画をやめても帰る場所がない、親にネグレクトされた傷を無意識に漫画で救おうとする天才中田(永山絢斗)が出現する。漫画表現をすることが生きることと同義である異能と遭遇する。

 中田のネームを読み、あまりの才能に怯えた沼田は「あいつになりたい」と、禁断のエリアに落ちる。中田のネームをインクで汚す。
 ところが皮肉なことに、誰に渡しても「自己犠牲のヒロイン物語だろう?」と誤解されて来た自分の作品を、この天才は泣きながら「これはすごいです!」とハートを震撼させる。そしてなんと「これは自分自身の存在というものを問う作品です!」と正しく評価するのである。

 沼田が「伝えたかったが伝えられなかった、それでも本当は伝えるために泥まみれにならねばならなかったはずのモチーフ」を、この不幸な天才は一瞬で見抜いた。

 自分の伝えたいことを、狂おしいほどの嫉妬を感じる若き天才に邪心なく言語化され、理解されたことで、残酷にも、沼田はついに正しく自分と向かい合い、ひとつの結論を受け入れることになった。

 「俺には才能がなかったんだ」と。

 自分が愛する、自分がすべてをかけて努力したことに才能がない、才能を開花させるための勇気がないことを受け入れるのは辛い。本当に辛い。
 だから泣く。沼田は泣く。そのことをよくわかっている者たちは泣く。「伝えたいことを伝えたいやり方で伝える」ことが許されない、中田のような「神に選ばれし者」でない者たちは、いつかそれがわかり、泣く。

 漫画かきでなくても、そのことがわかった者は泣く。

 渾身の原稿600枚に、「いったい誰にこれを読ませたいのですか?」と、正しくダメ出しをしてくれた編集者が、かつて私に言ってくれた言葉を思い出す。

 「私は、あなたに物書きとして自立して欲しいのです」。

 そして、私は未だに物書きとして自立しているという確固たる自信がない。

 ドラマ『重版出来』は、どんな間抜けなことやってもカッケー男、オダギリジョーをして「そこは編集者が手を出せない、作家が自分で乗り越えていかなきゃならない壁なんだよ」と言わしめた。

 TBSよ。やればできるではないか。王道の「ドラマのTBS」じゃないか。

 視聴率はさほどではなかったとのことだ。さもありなん。
 いいんだよ。「数字取れてるからOKじゃん」と何の葛藤もなくしらっと言える軽い奴に、ここに書いたことなど伝わらないのだから。

 しかし、もしここに書いたことを、どうしてもその志の低い人間に「伝えたい」なら、毎日、毎秒、呻吟し、「どうしたら伝わるのか?」と考え続けねばなるまい。俺は特別だなどという、何の役にも立たないコートを脱いで。

 言わずもがなだが、故郷に帰って酒屋を継いだ沼田は人生の敗者ではない。東京を後にしても、それでも楽しく生きていくために絶対に必要なこと、すなわち「一度きっちりと負けるといふこと」を、彼は自分自身で獲得したのだから。

 そういう者を私は敗者とは呼ばない。

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