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廣島、広島、Hiroshima, ハイロシィマァの日:所感

 原子爆弾投下から75年目です。
 
 核兵器が無垢の人々の全てを奪うという蛮行がどうして起こったのか。どうしてそれを止められなかったのか。その愚行をどうやって記録するのか。引き継ぐのか。我が子に伝えるのか。

 それをずっと考えて、それをずっとやり続けて、今もなおやり続けている友人たちがたくさんいて、その思想的営為の価値は寸分たりとも失われることはありません。

 他方で、小学校4年の夏に「終戦から27年」の原爆慰霊祭をテレビを見て以来、48年間ずっと沈殿する「収まりの悪い気持ち」があります。

 「戦争はいつも、人々を悲しみのどん底に突き落とし、弱い者達の犠牲を生み出します」云々という定番の言葉です。

 そこに嘘はなく、これが世界中に届けばと、今でも思うわけです。

 しかし、10歳の頃、こうも思ったのです。

「戦争?戦争は起こった”事”じゃん。でもそれをやったのは”人”でしょ?どうして原爆慰霊祭や学校の社会時間の先生の話には、”誰が”という話が出てこないの?」と。

 そして、それは大人の後付けかもしれないけど、「戦争という抽象概念は原爆など落とさない。落とすのは人間であり、それを可能ならしめるのは政治である」と48年後に確信しているわけです。

 戦争を文学的表現で語る。
 それは思想的営為として、私自身も死ぬまで続けるでしょう。

 なぜならば、「文学が政治の前で徹底的に無力であるということを自覚して、突き詰めた地平において、それは反転して、その無力さゆえに文学は強靭なる政治的意味を持ちうる」と言った竹内好(よしみ)の言葉を、今も胸に抱えているからです。

 これからも広島と長崎で起こったことを、文学の言葉で、ある時には詩学として、語り続けるつもりです。

 今まさに、広島での人類的経験を踏まえた後に、「核兵器を使用することは国際人道法における”戦争犯罪である”」という前提で、世界では核兵器使用を禁止する約束をする声がけがなされています。

 その営みはまったくもって正しいと思います。日本政府は、すぐにそれに調印するべきだと思います。

 しかし、それに調印するなら、「国際人道法で義務付けられている、戦争犯罪は各々の主権国家が責任を持って一般的刑法とは異なる法律で裁かねばならない」という前提ルールを守らねばなりません。

 国家組織だけでなく、様々なテロ集団が戦力としてカウントされているのが、第二次大戦時と決定的に異なる現代世界ですから、ISを相手に日本の自衛隊も駆け付け警護の際に、そして国境で紛争に巻き込まれたりして、誤射・誤爆がなされる可能性があります。

 だからこの国際法をきちんと履行しないと、「核兵器使用禁止と言いながら無法無統制の軍事組織を派遣している国なのか!」と、ついに発見され、驚かれ、世界の良心ある人たちを裏切ることになります。

 繰り返しますが、日本はこの条約に調印していないし、調印しても、この国際法を守るための制度がありませんし、法制上「作れない」のです。

 理由は、「戦力や軍隊などないということになってる」という態度と主張を支える、憲法9条2項の誤読と意図的な政治利用が存在するからです。

 あの戦争で310万人死んだ、その犠牲を忘れんと死守してきた憲法条文が、その崇高なる憲法条文が、「核兵器を使うことは戦争犯罪だから、それを禁止する条約を結びましょう」という世界の真摯なる反戦活動の桎梏になっているという切なさです。世界第8位の軍事力の国の現実です。

 核兵器の使用を禁止しようという約束の障害となっている憲法9条。なんたることだ。

 これをどうするべきかを考えることは、私にとって10歳の夏に自分でふと到達した宿題と格闘することなのです。

 戦争そのものが道徳的な悪なのです・・・大人はみんなそう言いました。

 戦争をする人や組織を暴走させない仕組みを作るためには、戦争をするための武器や組織が「ある」ところから始めねばならない、大人になった私はそれを今ここで言っています。

 政治をきちんとやって、憲法9条の理念を現実化させ、「制御不能な軍拡国家」にブレーキをかけたいと考えます。

 「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という原爆碑に書かれた言葉の”過ち”の主体を、野蛮な米国と暴走した軍部に「曖昧に限定」することなく、思想を隠蓑にすることもなく、淡々と政治的に行動することを、呼びかけたいです。

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