見出し画像

立体的に浮上する「戦争に負けた理由」〜堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』、講談社、2021年〜

 実に迂闊なる、己の不明をあらためて痛感した。
 あの戦争において起きた出来事、ファクトの表層をなぞる中で、なにかぼんやりとしていた戦争の大切な様相だ。

 「陸軍の暴走、海軍の面子死守、機能しない政治、立憲君主たらんと拘泥する天皇、資源小国の悲哀、後発型近代国家の焦燥と傲岸、帝国主義的世界構造・・・」。
 
 こうした基本文法を下敷きに、1941年からの約四年の経緯を、個別戦闘や作戦に注目しながら、その失敗と敗北の原因を私はライフワークのつもりで学んでいる。
 真珠湾攻撃における「トドメの攻撃の回避」、「米国空母を温存させた不徹底な先制攻撃」、そして「電探の脆弱による”運命の5分”で大敗を喫したミッドウェイ」云々。

 しかし、本書を通読して、至極当たり前の、あらゆる意味で「あの」戦争(戦争一般ではなく、あの時代とあの地理的、物質的、史的条件に置かれた日本という国の)の基本の問題が、眼前に突きつけられた。

 それは、作戦展開、兵站を支える、四方を海に囲まれた国家の海洋輸送の決定的軽視という問題である。

 もちろん自分は、かつて1992年にNHKが制作した太平洋戦争の分析番組『ドキュメント太平洋戦争』を視聴し、ビデオに録画し、全6篇を何度も検討し、放映後に出版された書籍も読破していた。あの番組は、NHKが公共放送としてなすべき最良の「歴史再調査特集」の金字塔のひとつと呼んでも良い優れた作品だった。
 その第1集は、「大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~」であり、米国による石油の全面禁輸以後の「南進」政策における物資の補給を支えた輸送船を扱った圧巻のヴォリュームだった。
 戦争の敗因について、ここでは「輸送船舶の生産計画の過大評価と消耗率の過小予測」によって、絶対国防圏が次第に縮小し、戦争継続の物質的基盤が失われたことを雄弁に解説していた。
 
 戦闘作戦展開のために必要な兵站のために徴用された船舶についての統計的実態などは、そこからおおよそ理解できるが、基本認識として実に迂闊であったのは、その海洋輸送を担っていたのが「陸軍」であったことが明確に念頭になかったことだ。海洋輸送であるから、とうぜん海軍と海軍の軍属とされた民間会社による共同作業だと、私は思っていたのである。
 海に囲まれた極東の島国がアジアの陸海で二度に渡り国力が疲弊するまで戦った戦争(日清・日露)において、すでにこの地理的条件で近代戦争を展開する困難、そして拘束的条件は突きつけられていたはずなのだ。
 それにもかかわらず、「兵も、弾薬も、糧秣も、なにもかも海洋輸送あってこそ」成立するという、最も基本的、根本的問題と向かい合う軍隊の組織が、最初から最後まで傍流の脇役として軽視され続けた「陸軍の船舶司令部」だったのだ。
 そして、その独特の位置付けと役割を課された船舶司令部があったのが、広島原爆ドーム前からもう何十回も乗った路面電車の行き先に示されていた「宇品港」だった。「宇品」と聞くと、私のような政治学徒は「あの丸山眞男先生が徴兵されて勤務していた宇品だ」と思うだけだったし、原爆投下直後の巨大なキノコ雲を撮影した地点が「宇品基地」だったと思い出すだけで、海洋国家の軍事的役割として不可欠な地としての宇品に関する認識は実に貧困だったのである。

 「旧日本軍最大の輸送基地・宇品には、この国の過去と未来が凝縮されていた」(序章、10頁)

 この不明ぶりに手を差し伸べてくれたのが、広島の地に生まれ、広島と向き合い続けてきた、この堀川氏の入魂の作品だ。

 忘れ去られた宇品という地、日本の陸軍史に埋もれていた数少ない俊秀を本書は渾身の取材と調査によって掘り起こしてくれた。
 ここに描かれたのは、「国を守る」ということの本質を「作戦展開と軍を守る」という軍事組織の生理に引きずられず、「海上戦に動員される民を守る」という視点をも持って、己の出世と保身を省みることなく「船舶輸送の充実化」を意見具申し、奮闘した司令官、そして、その司令官の志半ばの船舶司令部を受け継ぎ、陸軍の官僚組織の驚くべき杜撰な戦争計画の最中、絶望的努力を強いられ、それを破滅的終戦まで敢行した者たちの足跡である。

 本書のおかげで個別に得られた発見は、数え切れぬ量になるが、その中でも印象的であり、かつ「そうだったのか!」と天を仰ぐような事実をいくつか備忘的に記しておきたい。

 ソロモン諸島における日米の死闘、とりわけガダルカナル島をめぐるものは、太平洋戦争の帰趨を決したものの一つとして語られるが、不勉強の私は、ヘンダーソン飛行場奪回のために送り込まれた「一木支隊(第七師団)」が、ミッドウェイ島上陸作戦が海戦の大敗によって消滅した結果、帰国途中にガダルカナルに反転させられ動員された部隊であったことを、本書で初めて知った。どうしてかように半端な支隊を送り込んだのか、ずっと謎だったのだが、本書でその理由がわかった。
 一木支隊は、盧溝橋事件において先陣を切った精鋭部隊だったが、なんとこの中途半端な「南方での戦いの経験値ゼロ」の部隊を、ラバウル基地から1000キロも離れた(東京−門司間くらい)ガダルカナルまで、2隻の船(「石炭焚き」のレシプロエンジンで、8.5ノットという「自転車レベル」のスピードしか出ないもの)で輸送したのだった。
 流石に「こんな船で戦争ができるか」と怒った海軍が一木支隊の半分を駆逐艦に分乗させて輸送したが、駆逐艦ゆえに軽装備しか運べず、上陸後米軍の圧倒的火力の前に全滅した。そもそも、陸軍参謀は当初「ガダルカナル島」と聞いて、どこにある島かも知らなかった。この後、一木支隊の半分と川口支隊を合わせた6000人も、兵法としてもっとも戒められている「戦力の逐次投入」によって、全く同じように蜂の巣にされて壊滅した。
 この敗北時期から1ヶ月、米軍は日本軍の目を盗むようにガダルカナル島に続々と輸送船を送り込んで兵力を増強させていたのに、海軍は現場で米軍の輸送船団を確認しつつ、「艦船ではない」という理由から攻撃を見送っているのだ!
 陸海軍ともに「海洋輸送」を、この期に及んで全く軽く見ていたことが、逆に照射される。世界一軽く、性能の高い零戦の航続距離をしても、ガダルカナル島での空中戦は帰投分のガソリンから逆算すると「せいぜい5分」しかできない。
 輸送船一隻が沈没すると、作戦上デッキに上がることを許されていなかった、船倉に押し込められた兵士たちは、満載された重機・武器・弾薬や糧秣とともに1500人が水没する。何十万という兵士が南の海に消えた。
 しかし、同時に、空からの援護もなく、対空砲の装備すらない民間徴用の古船に兵士の装備もない、丸腰の船員が乗り込み、決死の覚悟で空爆を受けながら、機雷や魚雷を避けながら、日本から6500キロのラバウルの、なお1000キロ先の島へ兵と火器と糧秣を輸送したのだ。

 なんと無謀な戦争なのだろう。
 四方を海で囲まれた島国が破滅した理由は明白だ。

 最後に、あらためて堀川氏の稿から、憤怒の情と未来への不安を呼び起こす一節を引用して、この備忘ノートを閉めようと思う。

  開戦前1ヶ月に開かれた最高戦争指導者による連絡会議のための「船舶建造量と敵潜水艦による船舶喪失量の資料」の提出を上司(軍令部第一課:作戦課首席部員神重徳大佐)から迫られた軍令部第四課(補給)の土井美二大佐は、せっつかれて四半世紀以上前の第一次大戦のドイツ潜水艦によるイギリス船舶撃沈データ(10%)を、そのまま日本船舶の消耗予想数値として資料を作った。この資料によって「なんとかなるではないか」と開戦は決定的になった。

 「島国日本から兵隊を戦地へと運び、そこへ軍需品や糧秣を届け、占領地から重要資源を運んでくるのは船しかない。その往復の輸送の見込みが立つかどうか、船腹量が足りるかどうかは開戦判断にもっとも重要な要素である。しかし開戦の決断に決定的な影響を及ぼす損害船舶の数値は、海軍のたった一人の担当者の手で、四半世紀前のデータで『一夜漬け』で創られてしまった」(同著、218頁)

 太平洋戦争の死者は、軍人軍属250万人、非戦闘員60万人。
 この中に、徴用されて海の藻屑と消えた民間船員の死者が含まれているのか?日本政府は、あれから今まで、これを明らかにしていない。民間調査が推定した「戦死者」は、約6万人とされている。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?