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「ゼミ&会議でうまくしゃべれないという悩みのために」:第五回 そもそも僕たちはなぜ議論なんてするのか?

<言葉をぶつけ合うと両方の知見が増える:僕たちが議論する理由>
 「発言=正解提出」という誤解に加えて、人々が発言しにくくなるもう一つの誤解が、人間が議論をする目的に関するものです。発言すること自体は、さほど大変な大仕事、作業ではないのだとするためにも、一度立ち止まって考えてほしいのは、私たちが人と議論をする理由です。

 議論するということを「言いたいことをとにかく主張する」とか、「正しいかどうかは別として、とにかく思いのたけをぶつけてみる」、あるいは「言葉で切った張ったする」ことだと思っている人たちが、まだ相当たくさんいます。とくに強いのは「文句を付けること」「気持ちをぶつけること」「反対者をコテンパンにすること」の三つが多いです。残念ですが、みんなハズレです。どれもこれも根底には「わたしは不安なのだ」という気持ちが見え隠れするものです。
 あまり耳慣れない言い方かもしれませんが、私たちが議論をする理由は「自分はあの人といったいどこで分かれてしまったのかを確認するため」です。そうすると、「考えが違うことがはっきりするから、そうなればしこりも残すし後味も悪いではないですか」と、心配を訴える人もいます。もちろん議論の仕方、言葉の選び方によっては「今はもう遠い距離が二人を隔ててしまっているのだな」という気持ちを強めたりもします。

 しかし、私がここで強調したいのは「異なる点」だけではありません。その前に、逆に「〇○までは同じ道を歩いていたのだ」ということを確認することの大切さを強調したいのです。そして何が違うかだけでなく「何を共有しているのか」を確認することのポジティヴな意味を評価したいのです。
 議論によって対立点を明らかにするというのは、別に間違った物言いではないと思いますし、正確な認識を得るためには大切なことです。しかし、「ここまでは共有していた」ということを確認することで、今度は「では何を克服すれば共有地平を増やすことができるだろうか?」となるわけです。

 例えば、私は昔ある友人の言葉の端っこを過大に受け止めてしまって、「あの野郎はとんでもねぇ右翼だ」と決めつけて、売り言葉に買い言葉で相手もこっちのことを「左翼ファシストめ」と思い込んでいました。
 ところがひょんな機会にちゃんと話してみたら「自分の愛する故郷や地域の人間こそ最も大切な人達である」という基本姿勢と、「大資本のスーパーよりも個人がやってる商店街にお金を落とすというように、虐げられている経済的弱者へのシンパシーを持っている」ことが完全に一致していました。

 「えっ?」と思ってもう少し話してみたら「そういう世の中を、強い権威を通じてまとめるか、よたよたしながらでも皆で相談しながら決めて行くか」の部分で袂を分かっているに過ぎないことに気が付いたのです。
 考えてみれば、強力なリーダーや伝統に重きを置くことと、より民主的に物事を進めることの間にある違いは、所詮は「程度」の違いに過ぎません。様々な中間領域があるからです。
 このやり取りの後、両者の心に残ったのは「俺らそんなに違わなかったんじゃん」という温(ぬく)い気持ちです。そして「俺らが本当の戦う相手」が誰なのか、という大切な問題設定に一緒にたどり着けるのです。つまり、議論をして袂を分かつのではなく、議論をすることで人間が結び付くことの方が、我々全体の水準を上げて行くと思うのです。そのために私たちは議論をするのです。
 発言することに大仰な意味を込めすぎている人は、発言して議論して結論を出すなどと考えれば、とても億劫になってしまい、心のハードルも上がりますし、自分にはそんな立ち回りはできないと思ってしまいます。ですからそうならないためにも、議論するそもそもの目的というものをもっと前向きに理解した方がいいと思うのです。

 生態を震わせると、友人が増えるのだと。

つづく。

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広島カープ愛あふれる政治学徒・教員(専修大学法学部)・物書き。暮らしで見聞きしたデータ全てで「地べた目線の政治学/デモクラシー」を模索し、地域密着人生。Twitter : @ganaha22 FB: http://facebook.com/Okadakenji