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「ゼミ&会議でうまくしゃべれないという悩みのために」:第四回 小中高12年の心の習慣から離脱する。

<小中高12年の心の習慣から離脱する:答えは複数ある>

 多くの人々は、議論をする目的を「正解を導き出すため」と思い込んでいます。実に不幸な勘違いです。そう思ってしまっているのでは、それは心も口も頭もこわばるわけです。学問の世界に足を突っ込んでかれこれ40年の私ですら、議論する場で「正解だけを発言願います」などという縛りをかけられたら、永遠に沈黙を守りとおすことになるでしょう。
 まずこの「正解」という言葉がいけません。お勉強から学問や実践知へと世界を変えるためにまず必要なのは、「答えは一つ」「真理は一つ」という心の習慣を上手に捨て去ることです。

 すると、真面目な人はこう反論するでしょう。「それじゃ、これまで学校で『正しい答えを書きなさい』と言われてやらされてきたことは、いったい何だったのですか?無意味なことだったのですか?」と。

 そういうふうに言いたくなる気持ちも当然です。なにしろ6歳で学校に入ってから延々とそれをやらされてきたのですから。国語の試験で「下線部の作者の気持ちを説明しなさい」と設問されて、解答に「複雑な色々な気持ちです」と書いたら「不正解」となるという理不尽なことが行われているのが日本の学校ですから(「気持ち」を問われたから「気持ち」を答えたら、「その気持ちは違います」と評価されるという、実に詐欺まがいのことが横行する場所です)。

 でも、ひたすらやって来たことは無駄とされるなら「おれの(あたしの)12年を返せ」となってしまいますから、このことは、次のように言い換えることができます。
 6歳からの12年間は、「答えは一つではありません」ということをきちんと考えるためにどうしても必要な最低限の技法と知識を身に付ける時代だったということです。「答えは一つ」と指定してくる馬鹿馬鹿しさには、私は13歳の時に既に気づいていましたが、どうして「当座は、”答えは一つ”というふうに教育せねばならないのか?」には気づきませんでした。

 大学以前の学校が、ひとつの答えを要求してきたのは、正確には「答え」ではなく、「とにかく頭の中に入れておかねばならない、ものを考えるための基本重要データ」だったということです。「シクサンジュウロク」だとか「ハッパロクジュウシ」、あるいは「ナクヨ坊さん平安京」や「以後染み残す鉄砲伝来」といったデータは、無くても人生が立ち行かないという知識ではありませんが、広義の教養の部分をなすものであって、時には人生を楽しくさせるものです。人間は最低限の素材とデータが無ければ、世界や人間を考えることができません。それがあっての学問や知というものです。
 しかし、もはや大学や職場においては、「ここはもうそういうものは一通り身に付けている人が来るところ」というところからものごとを始めていますので、教室やオフィスでは当然そういう意味での「答えは一つだチィパッパ」のような教育はしていません(タテマエ上は)。だからもう「正解を言わねばならぬ」という焦りは必要が無いのです。

 「少子高齢化社会化が加速度的に進行する現代において日本の税制はどのような基本設計に作り変えるべきなのか?」という問題を出し、それを教室で「これわかる人?」と、大学教員は尋ねません。そんな巨大な問題を大学の教室でいきなり展開する教員がいるとしたら、それは正解を要求しての質問ではなく、こういう問題に未熟ながらも学生がどういう問いを立てて来るのかを探るためにやっていることであって、真面目に正解を問うはずはありません。「3×3=?」には答えはおよそ一つしかありませんが(これだって理論数学の世界では”およそ”です)、「参議院選挙の一票の格差はどれぐらいが許容範囲か?」という問題に答えが一つしかないわけがありません。

 だからコメントを求められたら、「そうですねぇ、難問ですけど、全部平等っていうわけにもいかない気もしますよ。スタートとしてはね?」と、コメントすればいいだけなのです。

 ほら。肩の力を抜いて。公園の芝生の上で座っているような気分でね。

つづく。

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