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なにを受け渡し、残したいか

肺にかげが見つかる

こんな健康健康言っていてさ,人の健康のために,ケアだけじゃ居ても立っても居られない!やっぱり治療がしたい!学校行きたい!!といって,今,最終学年の過渡期。
何してんのって感じです。自分はどうよって感じです。
良いところばかりを見せていても仕方なく,わたしそのもので生きていく,人とつながっていく,人生ののこりを勝負していくって決めた時,一緒にともに,楽しく健康でみんなの志が全うできるように、やっていこう!と言おうとしている時,そして,そこで一緒に岡田さんと過ごしてみたいな,とかフォローしようって思ってくれる人がいるならば。
やはり、たゆまず、伝えていくことは必要ですね。

ずっと迷っていました。完璧主義になりがちな自分で、、。
だから発信も完璧じゃないといけないから。お役に立つ投稿でなければいけないから。まだ全部決めきれてないから。整ってない投稿はちょっと。お茶でハーブでいくって決めたじゃん。でも健康について、病気や療養や養生について語りたいこと、たくさんあるじゃん。正しくないかもしれないから。まだ鍼灸師取れてないのに。ちゃんとやりたい。極めたい。

でもこれらは、誰が決めたことなのでしょう。発信の価値を決めるのは読み手じゃないの?ちゃんとって何?見せかけだけの表面の関係は、本質ではない。わたしの築きたいものでもない。なので,ありのまま綴ります。

結局,自我が入る、念力のような治療では,投稿では、人の健康に寄与することもできないし,娘やこどもたち、家族を守ることもできない。自分をすり減らして,果たしてお互いにとって,良い成果,良い健康,なのだろうか。

かげは,肺炎の炎症のあとかもしれないし,肺がんかもしれないし,たまたま健康診断で小さな影が写って,呼吸器内科専門の見る人が見ると(CT),最悪の事態の懸念として拾う,くらいの大きさで,今,西洋医学ではできることが何もない。開胸切開もできる大きさでないし,気管支鏡でもピンポイントに取れない,,,そのかげが大きくならないか,時を待ちます。

いや待て?こういう時こそ,東洋医学や鍼灸の力を試せる時なのでは。
数値として提示できないけれど免疫を上げるとも言われるツボの口伝や、臨床実績を記した鍼灸の先生方の記録もある。西洋医学、東洋医学の分断でなく、どっちかでなく、統合であり、どちらも技術であり、わたしにとっては、どちらともともにいたい存在。

そんな時,「もしも」が自分に降りかかって,やっと改めて死を迎えるとしたらという話がちょっと切実になる。
本来は、いつどこで不慮の事故に遭うかもわからないものなのに。

じゃあ良い治療ってなんだろう。わたしは,死ぬ前にどんなモノが残したいのか。

どんな治療が最上に良いものか

かれこれ20年健康について,看護師として、色々見てきて考えてきた、自分の中での最新の結論。
それは、会うだけで行くだけで、元気をもらえる。投稿を見ただけで嬉しい。こうなれば最高。(なんだ、アイドルみたいだな。)
その人自身の治る力を信じ,自然治癒力が最大限になるようにサポートをする。技術の鍛錬をしていくことは最低限に努めることだけれど、テクニックに頼りすぎない。
身体はもちろんケアするのだけれど,あとは、心。
心の問題は,本当に大きい。1番大きいかもしれない。
体調が悪い方が都合が良い時もありませんか。
断りやすい。休みやすい。病気は言いわけできます。本当に心の底から無意識から潜在意識から治りたいと思えていないと,もしくは原因となる事象の解釈を変えないと,治るものも治らない。一番自分では直視できない部分。突きつけられると辛いところかもしれない。(疾病利得と言います)
対話でしか、見つけられない大切なところ。他者との対話でもいいし、自己対話でもいいしね。
わたしの場合はなんだろう。がんばりを認められたい?
自分の感情の本質を見つけたら、糺すことができる。

そして、心や認知が変われば、その人の環境や習慣をやっと整えられる。
提示した手段は、家庭に持ちかえることができる方法なのか、大切な部分。
薬は出るかもしれない。減塩しましょうと言われるかもしれない。甘いものはやめられない。ダイエットは明日から。。。
薬を飲む習慣は、減塩の食事は、甘いもののコントロールは、マインドが立ち、本人や家族がなんとかして工夫してできるようにして、初めて有効になるもの。医療者が、正しさを押し付けたとて、患者はその習慣をやれるわけじゃない。知っているけど、できないだけ。楽しくやれるか。すごいと思えるか。それができるようになりたいと心底納得するか、それが得になる効果あるとわかり、やり続けられるかの方が、よほど重要。

自我や念力、自力をとりさり、治療者が治療をやれるだけのことをやりきったとき。
本人が自分自身と逃げずに、向き合えたとき。行動に落とし込めるとき。
あとは他力。人体や脳の仕組みが全て科学でわかりきっていない現段階の世界において,神のみぞ知る。そんな領域もある。その本人の「神」にお任せする。神は心に宿る。(と東洋医学では言われている。)
きっとそんな時は治る方向でしょう。治らずとも、心穏やかに、来たる時を迎えられるはず。どんな段階でも、それは紛れもなく、その人自身の健康と言える。そんな治療をわたしもできるように鍛錬しよう。そして、わたし自身も、良き?患者でいよう。

私が死んでも残るものは

自分を守る観念や価値観は、死んでも、残されていく。

特に、健康観念は、免疫が完成していない、怪我もしやすい小さなこどもを守るために、親が世話することやその仕方は、こどもの土台や当たり前となって、伝わっていく。子へ、子孫へと残されてきている。

例えば、もともと、灸治療は中国の医学で、空海(弘法大師)が歩いて日本中に広めた技術で、昔は各家庭にキリ艾という灸が常備されていた。医者がどこにでもいたわけではないから、家庭のケア力はそれなりに高かっただろうし、地域の寺でみんなをケアしてきた。今でもドラックストアには必ず灸があることからも、灸は、日本人のケアに根付いている受け継がれてきた健康観念のひとつであり技術のひとつ。
そして灸は身を焼くものに在らず、心に灯りを灯すものなりと空海は説いておられ、治療姿勢そのものを受け継いでくれている。この概念は本当にすごい。医療の真髄だと思う。

アロマやハーブはその辺にすぐないけど、漢方はすぐに手に入る。灸も実は和ハーブでヨモギ。ヨモギは日本どこでも手に入る若草で、誰でも安く手に入る。ヨモギは、造血、血行促進、温める、利尿作用による老廃物の排出、シネオールも含みリラックスを促す。
逆にヨーロッパでは(質はともかく)当たり前に薬局やスーパーにハーブ関連商品があります。
一方で、そんな日本の治療文化や知識は、戦後遮断され、各家庭で行われてきた初期治療やプライマリヘルスケアつまりお手当が失われてきている。小児科や病院に行ってくかどうかのジャッジになりがち。自分の体調なのに、他人の任せになってしまう。もちろん、受診はめっちゃ大事で、行って損はありません。むしろ得です。その道のプロによる経験もつドクターに客観的情報を教えてもらえるのだから。

でも、治すのは自分自身。
その治すプロセスや判断は、各個人、各家庭に委ねられている。わたしのしようとしている仕事は、そのプロセスを支えること。自分を守るための価値観や健康概念を育てた上で、技術として伝統的に大切にしてきた効いたから受け継がれたものを、(各個人がハーブでもアロマでも鍼灸でも、森林医学でも西洋東洋問わず、なんでも良いから、心地いい気持ちいい楽しいと思える習慣を)こどもたち、次世代に残せるものなんだ。
親はそれをこどもに授けられる。伝えられる。こどもに健康の選択肢として渡せる。
わたしも看護師の母から受け継いだもの、色々な先輩方に教わっていた技術と知識を持っているのならば。看護師であり、保健師であり、鍼灸師として。
やることは、まだこれからだし、たくさんある。

脳内たれながしになっていて、文もおかしいし、死ぬほど恥ずかしい。
でも、何かが、きっと伝わると信じる。

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