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文字が見せてくれる景色は、ときに映像を超える

文章に動きや音はない。あるのは文字だけ。その文字が見せてくれる景色は、ときに映像を超える――。

文章は読むことでしか、中身を知ることができない。同じ文章を読んだとしても、言葉の持つ意味は人によって異なるため、その印象はさまざま。結局のところ、すべてが読み手に委ねられる。

映像は動きや音など、その空間を伝えることに適している。何が動いているのか、何が鳴っているのか、簡単に見てとれる。映像は見えているものがすべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。常に第三者の視点に立ったもの。映画やドラマなど、画面越しに苛立ちや爽快感をあじわうことはできても、そこに視聴者が入り込む隙はない。どうしたって、ジェイソンに追われるのは、「私」ではなく、「彼」「彼女」なのだから。

文章は一人称的に感じる。小説がわかりやすい。読みはじめは情報が少なく、登場人物を端っこから覗くような感覚にある。読み進めていくうちに、登場人物の容姿や場面を想像するようになる。少しずつ文章が映像になっていく。作品によっては、登場人物と自分を重なり合わせることもある。そして、文章の中にゆっくりと潜り込んでいく。気がつけば、登場人物らと同じ空間にいる。文章から想像力を掻き立てられ、物語に「私」が入り込んでいく。

島崎藤村の『破戒』を初めて読んだときのこと。主人公の丑松が職員室で倒れこみながら教員たちへ謝罪する場面。自身が被差別部落出身だということを打ち明かした丑松。泣き崩れる彼の姿が「私」の目の前に映し出された。悔しさと安堵をにじませた丑松の泣き顔がそこにはあった。一人では立ち上がることのできないほどに崩れ、周りを囲む教員たちもその姿を見ている。彼らの表情はまばらで、一人ひとりが異なる心境にいるようだった。

文章の中で生まれる映像はとても立体的で、夢の中よりもくっきりとしていた。いまでも鮮明に残っているその感覚は、文章の面白さを教えてくれた。そして、映像を超える文章というものを教えてくれた。


2020/10/12

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