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信長は義元の居場所を知っていたのか

 桶狭間古戦場公園の南、長福寺の近くの池のほとりに
瀬名氏俊陣所跡というものがある。案内看板には、
『里人は瀬名氏俊をしのび「セナ藪」、「センノ藪」と
 呼んでいます。』
とある。もし、瀬名氏俊がここで住民に極悪非道の限りを
尽くしていたら、『瀬名氏俊をしのび』とはならず、忌ま
わしい記憶を消すために藪も切り払われて、祠でも立てて
鎮めの儀式でもしていたかもしれない。
 ということから、瀬名氏俊に対する地元住民の評判は
良かったのではないかと推定した。織田方の領土であると
いうよりは中間的であり、あるいは今川の領土であると
いう認識であったかもしれない。
 合戦の数日前からやって来て、番をするようにしばらく
滞在していた。一時的な休憩場所ではなく、義元はこの
あたりである程度長く滞在するつもりだったのではないか
と推定した。そうすると、地元の住民とは仲良くしておい
た方が何かと都合が良いのではないか。
 あとは、瀬名氏俊と今川本家との距離感。太原崇孚が
生きていた頃の瀬名氏俊に対する扱いはどうだったか。
 
 瀬名氏俊が桶狭間で本格的な陣所を設営していれば、
当然織田方の細作から信長へ報告があったはずだ。

 この情報は信長の頭にインプットされ、今川軍の現在
位置を推定しながら、信長は作戦を考えていたのだろう。


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