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今川義元はなぜ大軍を率いてやって来たか

 よく言われていたのが、義元が上洛を目指していたとか、
尾張を領有しようと目論んでいた、です。
 私は次のように考えています。

 今川方の鳴海城、大高城の周りに織田方が砦を築いて包囲した。
これは「かかって来い!」という信長から義元に対する挑戦状
である。
 数年前までは、太原崇孚が大きな戦を指揮していた。太原崇孚
亡き後、義元自身で大きな戦を采配出来るのか、お手並み拝見と
いうところか。
 義元としては、ここで対外的にも家中に対しても、自分自身の
軍事面での能力を示しておこう、ということだったか。
 
 数年前の村木砦の戦いで、信長は斎藤道三から兵を借りて那古
野城を守らせ、自身は動員出来るだけの兵を連れていって戦った。
その頃と比べると、信長の勢力は尾張統一寸前という感じまで
大きくなっており、動員出来る兵力も多くなっていたはずだ。
 義元は、信長の戦いぶりや動員可能兵力を考慮した。決して
信長を侮ってはおらず、野戦巧者だと評価していたと思う。
 恐らく織田方は動員出来る最大兵力を繰り出して来るだろう、
と義元は予想したと思う。その頃には当然、ランチェスターの
法則などは知られていないが、こちらも大兵力をぶつけた方が
有利だろう、という感覚はあったはずだ。ということで、安全
を考えて、可能な限りの兵を動員したと考えている。
 
 六角勢が織田方に参戦していたという説がある。
1559年に信長が上洛して足利義輝に謁見している。
足利義輝ー松永久秀ー六角氏ー信長 のラインで畿内の三好氏
を駆逐しようと画策していたという話がある。
信長公記にはこれに関する記述はない。

①そういう事実はなかったから。
②信長の思惑を知らなかったから。(まだ身分が低かった)
③後の上洛戦の時に六角氏を駆逐することになるが、恩を仇で
 返す形なので、記載しなかった。((ありもしなかった話を
 でっちあげることはないが、都合の悪い話(信長や家康にと
 って)は、敢えて書かないことはあった))

ちなみに、足利義輝を弑したのは久秀ではなくて、息子の久通。


 一方、今川ー北条ー武田の三国同盟。関東公方との関係は。

オマケ

 関東公方。足利尊氏の子、足利基氏が初代。以後、〇氏という
名の人が多い。桶狭間の戦い頃の関東公方(古河公方)は足利義氏。

北条早雲ー氏綱ー氏康ー氏政ー氏直

今川義忠ー氏親ー氏輝ー義元ー氏真 (氏輝は足利義輝より以前)

義元は室町系の「義」の字。

その他東国の大名

伊達稙宗-晴宗ー輝宗 (足利義稙ー義晴ー義輝)

佐竹義昭ー義重ー義宣

名前で勢力が分かれているわけではないが。参考まで。



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