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12月21日 日記「そら頭はでかいです、すこんと世界が入ります」

木曜日。何度目かの目覚ましで九時に起きる。
 川上未映子の「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」という長いタイトルのエッセイ略してそらスコンを読む。ああ、その前に小学館の説明会を二つ受けた。そう、その後、少しいい加減に二キロほど走って、美容院の予約を取った。いつもぎりぎりに予約を入れてしまう美容院。なんか仲良くなったようで、毎回関係性をリセットさせちゃってるような気もする美容師の人に髪を切ってもらうに行く。電車の中、そらスコンを読みながら、美容師のお兄さんとの会話を妄想。ここで一笑い、とか絶対に起こりえない未来を鼻水をだらだら垂らしながら、うまい具合に会話を入れて組み立てつつ、電車の暖房となんかわからないけどいい文章のせいで、これまた不思議に涙が出てくる。あまりに生々しい、脳で考えたっていうか、脳を通さずに心から出た未編集の文章みたいな、そんな良さがある。
 読みながら、エッセイの良さはやっぱり、この文章がちゃんと俺たちが生きている世界と地続きになっていることを読者が揺るがぬこととして知っていることなのだなーなんて思う。というか、それは著者との信頼関係でちゃんと繋がっていることとしているというか。そんな感じ?そりゃ、やっぱり作家というのはおしなべて変わっている人が多いのだろうし、面白いものにしようと思ったら、それなりに着眼点のユニークさだとか、ちょっとした演出なり、比喩の誇張なりはなされるのだと思うのだけど、大前提みんなみんな違う場所で違う風に生きているわけで、必ずしもそこには共感があるわけではなく、は?まるでおんなじ生命体だと思えないわなんてことはざらにあるわけだけど、それは確実に私が生きているのと同じ世界で起こったことな、感じたことなわけで、だからこそ作家の見ている世界と読者の生きる世界の乖離に生活の可能性の豊かさとか、未来への期待とか過去への肯定とか、この活字の世界と確かにつながっている私たちのリアルのこと、本を閉じたら目の前に広がっている世界のことについて、読者は思いを馳せて、もちろん小説や詩でもそういうことはできるのだろうけど、エッセイはその繋がっている感が異常に大きいと個人的に思っている。小説はある種の現実から逃げ込むシェルターで、エッセイは明日も生きるために己を磨く空手道場みたいな、多分もっといい表現あるけど、まあそんな感じ。
 で、美容院で髪洗ってもらう時に顔にかけてもらうガーゼってなんであんな吹き飛びやすいの。「布団が吹っ飛んだ」ってまあ一年に二、三回誰かが言ってんのを耳にした時に脳内でイメージさせる布団のワっと浮く、下から泉が湧き出るみたいな、そんな感じの吹っ飛び方をするガーゼ。俺が単にしゃべる時に排出する空気の量が異常なのか、それともこれはあるあるなのか、もしくは俺がアシスタントさんの話を盛り上げようと思って、愛想笑いで吹き出しすぎなのか、ほんとにどっちなんだろう。まあ、そんな具合で感傷的になりがちなこの頃。

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