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性欲的ラーメン

時々脳がラーメンにジャックされているのではないかと思うことがある。

 例えば、大学の図書館で課題をしている時。それは頭の片隅から始まる。四隅の一つ、お掃除ロボットが行ききれない、丁度埃が溜まってしまうようなそんな片隅から。背油がぷくぷくと浮いたスープをたっぷりと飲んだ海苔のイメージがまず現れる。スープを飲んだ海苔はほとんどスープのような佇まいで、まだ浸かっていない海苔の上部は、スープから出る蒸気に当てられて、ヨギボーを手にした人間のように、もう駄目だと、器にもたれかかっている。

この時点では僕はまだパソコンのスクリーンを一心に見つめて、昨今の若者が陥るアイデンティティクライシスについて、さも他人事のように考えを巡らしたりする余裕がある。「僕は誰なの?あなたはどちらに?」そんなZ世代の問いにウルフは一世紀も前から答えを出していたのだ、なんて涼しい顔をしながらキーボードを叩き、ハーバード方式の引用で空っぽの主張の責任を誰かに押し付けたりしている。

こんなレポートを読まされる教授も本当に気の毒だなあ、などとぼやいている間に海苔のイメージはどんどん頭を埋め尽くし始めていて、その後を追うように現れるのが味付け卵の断面のイメージだ。

二つの味付け卵はすぐそばにいる海苔とはまるで対照的だ。今にもその身が崩れようとしている海苔は溶けながら沈んでいく泥船のようであるのに対し、卵はまるで高級なクルーズ船のように堂々とスープに浮かぶ。黄身には濃い橙色の中に朱色や黄色や紫がかった赤があって、所々濡れて光っている。まるで中には火が隠されていて、それが揺れながら色を移ろわせているみたいに見える。白身の凛とした佇まいとどこか危うさのある黄身。そのアンバランスさに、ついつい僕の隠されたサディズムが刺激されて、卵を麵で包んで一口で頬張ったり、マグマ状のとろけた黄身をスープの中に流し込んだり、妄想を繰り広げたくなるが、僕は理性でそれを押し留める。

僕は妄想から逃れる一心で、平泳ぎの息継ぎをするように、パソコンから目線を上げて周りを見渡す。そこには当然いつもと変わらない図書館の風景がある。本棚と本棚の間を渡り歩く学生がいて、じっと机に突っ伏して寝ている学生がいて、僕と同じようにレポートを書いている学生がいる。冷房は隅々まで行き届き、大きなガラス窓からは、すっかり日が落ちて濃紺になった空に葉をびっしりとつけた樹々の輪郭がぼやけて見えるのも、全てがいつも通りだ。

しかし、僕にはなぜだか釈然としないざわざわした感じがあった。何かがおかしい。いつも通りの全ての中に、強烈な異物が紛れているようなそんな違和感があったのだ。僕はもう一度周り見回す。やはりいつもと変わらない図書館である。しかし、依然として何かが変だという感覚ははっきりとしていて、席を立って、周りを少し歩いてみる。やはり何かが起こっている。なんの実態を得ないまま、それでも直感は確信に変わっていった。文庫の棚を抜け、雑誌が置かれた棚の前を右に曲がろうとした時、僕はその違和感の正体に気がついた。

床がなんだか滑る。いつも通りの少し起毛したカーペットに、ぬるっと足が取られるようなそんな感触があるのだ。その見た目からは正反対のテクスチャーに僕は戸惑って、片足で床を何度も擦っていると、僕は突然生ぬるい匂いに包まれる。僕はハッとして、後ろへ振り返るとそこには見覚えのある背中の男が麺をずずーと啜っているのだ。男ははっふ、はっふ、と熱々のスープから出る湯気を吹いて、勢いよく麺を啜っている。

脇目をふらずラーメンに全感覚を集中しているように見える男は様々な音を出していた。その音を聴くだけで彼が今何をして、何を思っているのが手に取るようにわかるような、音にはそれだけの解像度があった。ずすーとラーメンを啜る音、からからとレモン入りの水をコップに注ぎ、じゅるっと蓮華からスープを呑んで、はあああと洩れる感嘆のため息。

 男は四角いプラスチックの容器に手を伸ばし、そこからすくえる限りのネギをどっさりと麵の上に積み上げる。豆板醤を少し、黒コショウをぱっぱ、にんにくをどさっと。にんにく、にんにく、にんにく。これでもかとにんにくを器の中に放る。

ずずずーと勢いよく啜られる麵は、高層ビルのエレベーターのように男の口まで上昇し、頂点に達した時、麵の先端部はその勢いから波打ち、絡めたスープをTシャツへ飛ばす。ごきゅっごきゅっ、はっふ、じゅるっ、はあああああ。

僕はたまらず、男に後ろからタックルをかまし、スープまで空になった器を取り上げて男の頭に被せた後、自分の席まで猛ダッシュし、パソコンをばたっと閉じ、そそくさと近くの家系ラーメン店まで急ぐのだった。

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