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崇神天皇(すじんてんのう)

なんとなく天皇のことを勉強しようと思いまして。
しかも崇神天皇から。近くの古墳を散策したことがあります。
Wikipedia(2024/1/27時点)から写経してnoteの使い方もお勉強。
ふりがな機能があることを知り、初めて使ってみました。昔の神様のお名前とか長いのでちょうど漢字の上に付けられたらとても便利ですね。
ちなみに、太字やハイパーリンクのついた用語にはふりがなが付けられないようです。
また、天皇のお名前の前に[ ]がある時は代数をあらわします。


崇神天皇すじんてんのう(崇神󠄀天皇、[9]開化天皇9年または10年〜崇神天皇68年12月5日)は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日〜同68年12月5日)。
注)『日本書紀』で開化天皇28年に19歳で立太子りったいしとあり、これから逆算すると開化天皇10年。また崇神天皇68年に120歳で崩御とあり、これから逆算すると開化天皇9年。

『日本書紀』での名は、御間城入彦五十瓊殖天皇みまきいりびこいにえのすめらみこと。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと。実在した可能性のある最初の天皇とする説があり(注)、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向まきむく遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。
注)井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。

纒向遺跡 辻地区(Wikipediaより)

略歴

稚日本根子彦大日日天皇わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと([9]開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命いかがしこめのみことで後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命ひこふつおしのまことのみこと([8]孝元天皇の子、磐之媛いわのひめのみことの祖)。異母弟に彦坐王ひこいますのみこ(神功皇后の祖)。19歳で皇太子となる。父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫みまきひめを皇后とし、活目尊いくめのみこと(後の[11]垂仁すいにん天皇)や倭彦命やまとひこのみことらを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神おおものぬしのかみを祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦たけはにやすびこ([8]孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役かえきを科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。
★四道将軍(大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと丹波道主命たんばみちぬしのみことの4人を指す。後述。)

『日本書紀』

御間城入彦五十瓊殖天皇みまきいりびこいにえのすめらみこと
御間城天皇みまきのすめらみこと
御間城尊みまきのみこと
御肇國天皇はつくにしらすすめらみこと

『古事記』

御眞木入日子印恵命みまきいりひこいにえのみこと
所知初國御眞木天皇はつくにしらししみまきのすめらみこと

『常陸国風土記』

美萬貴天皇みまきのすめらみこと

漢風諡号しごうである「崇神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船おうみのみふね(大友皇子の曾孫)によって撰進された。

事績

疫病と祭祀

即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮みずかきのみやに都を移した。即位4年、詔を発して万世一系を謳った。即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神やまとおおくにたまのおおかみを宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して笠縫邑かさぬいむら(現在の檜原ひばら神社)に祀らせた。
注)肥後和男 著「崇神天皇」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典第6巻 すーち』河出書房新社、1979年11月。
天照大神を祀る場所はその後各地を移動したが[11]垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した(詳細記事:元伊勢)。

倭大国魂神は渟名城入媛命ぬなきいりびめのみことに託し長岡岬に祀らせた(垂仁紀に「穴磯邑あなしむらの大市長岡岬に祀った」とある)。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜きぼくにて見極めよう。」と詔して、神浅茅原あむあさじがはらに幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみこと([7]孝霊天皇の皇女)に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は斎戒沐浴さいかいもくよくして宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子おおたたねこを以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫やまととはやかんあさじはらまくわしひめ大水口宿禰おおみなくちのすくね(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君いせのおみのきみの三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市いちしのながおちにせよという神託を受けた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市も倭大国魂神を祭る神主となった。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。即位8年、活日いくひという者を大神の掌酒さかびととした。そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。

此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)

四道将軍

即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東口に座す墨坂神すみさかのかみと西口に座す大坂神おおさかのかみを盾と矛をもって祀った。即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命おおひこのみことを北陸道に、武渟川別たけぬなかわわけを東海道に、吉備津彦きびつひこのみことを西道に、丹波道主命たんばのみちぬしのみことを丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。

四道(Wikipediaより)

しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂さにのさか(奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。

御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも

引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことがさらに詳細な予言を行った。その結果、武埴安彦たけはにやすびこ([8]孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛あたひめは大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命いさぜりひこのみこと(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺ひこくにぶく(和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷じゅういを従わせたことを報告した。また北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。

御肇国天皇

即位12年、戸口を調査して初めて課役を課した。この偉業をもって御肇国天皇はつくにしらすすめらみことと称えられている。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。即位17年、献上品を運び込むための船を作らせた。即位48年、豊城命とよきのみこと活目尊いくめのみことを呼んで夢占いを行い弟の活目尊を皇太子とした。兄の豊城命には東国を治めさせた。即位62年、灌漑事業を行って依網池よさみのいけ(大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折さかをり池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知そなかしちを遣わしてきた。素戔嗚尊すさのおのみことが新羅に天降ったという異伝を除けば『日本書紀』において初めての朝鮮半島関連の記録である。即位68年、崩御。蘇那曷叱知は活目尊([11]垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしまった。『日本書紀』における任那と新羅の抗争はここから始まる。

后妃・皇子女

★皇后:御間城姫みまきひめ(御真津比売命)
 大彦命([8]孝元天皇の皇子)女
皇子:活目入彦五十狭茅尊いくめいりびこいさちのみこと([11]垂仁天皇)
皇子:彦五十狭茅命ひこいさちのみこと
 記の伊邪能真若命いざのまわかのみことに当たるか
皇女:国方姫命くにかたひめのみこと
皇女:千千衝倭姫命ちちつくやまとひめのみこと
皇子:倭彦命やまとひこのみこと
皇子:五十日鶴彦命いかつるひこのみこと
 記には伊賀比売命いかひめのみことで女性

★妃:遠津年魚眼眼妙媛とおつあゆめまぐわしひめ
 紀伊国荒河戸畔女
皇子:豊城入彦命とよきいりびこのみこと
 上毛野君・下毛野君等祖
皇女:豊鍬入姫命とよすきいりびめのみこと
 初代斎宮

★妃:尾張大海媛おわりのおおあまひめ(意富阿麻比売・葛木高名姫命)
 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)
皇子:大入杵命おおいりきのみこと(大入来命)
 能登国造祖
皇子:八坂入彦命やさかいりびこのみこと
 八坂入媛命([12]景行天皇の皇后・[13]成務天皇の母)父
皇女:渟名城入姫命ぬなきいりびめのみこと(沼名木之入日売命)
皇女:十市瓊入姫命とおちにいりびめのみこと

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである(『日本書紀(一)』岩波書店)。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

開化天皇9年または10年

 誕生。

開化天皇28年

 1月、19歳で皇太子に立てられる。

崇神天皇元年

 1月、即位。

崇神天皇3年

 9月、磯城瑞籬宮みずかきのみやに遷都。

崇神天皇5年

 疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年

 疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

崇神天皇7年

 1月、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に託宣。
 8月、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ託宣を受ける。
 11月、夢の通りに大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市いちしのながおちを倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となる。

崇神天皇8年

 4月、高橋邑たかはしむらの活日を大神の掌酒にした。
 12月、大物主の祭祀を事視して神酒を捧げる。

崇神天皇9年

 4月、墨坂神と大坂神を祀る。

崇神天皇10年

 9月、四道将軍派遣、武埴安彦の叛乱
 10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神天皇11年

 4月、四道将軍が戎夷を従わせて帰参、その様を奏上した。

崇神天皇12年

 9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と称えられる。

崇神天皇17年

 10月、献上品を運ばせるための船を作った。

崇神天皇48年

 4月、活目命を皇太子とした。

崇神天皇60年

 7月、飯入根いいいりねが出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが皇軍に誅殺される。

崇神天皇62年

 10月、依網池よさみのいけを造成。
 11月、苅坂池かりさかのいけ反折池さかおりのいけを造成。

崇神天皇65年

 7月、任那国が蘇那曷叱知そなかしちを遣わして朝貢した。

崇神天皇68年

 12月、崩御。宝算120歳
 (『古事記』では戊寅年12月に聖寿168歳で崩御)。

垂仁天皇元年

 10月、山邊道勾岡上陵に葬られた。

垂仁天皇2年

 蘇那曷叱知が任那に帰国。新羅に下賜品を奪われる。

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では磯城瑞籬宮しきのみずかきのみや、『古事記』では師木水垣宮しきのみずかきのみや。伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐しきのみあがたいます神社。

志貴御縣坐神社 拝殿(Wikipediaより)

陵・霊廟

みささぎの名は山邊道勾岡上陵やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ(山辺道勾岡上陵)。宮内庁により奈良県天理市柳本町にある遺跡名「行燈山古墳あんどんやまこふん」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。

行燈山古墳(Wikipediaより)
墳丘全景(右に後円部、左に前方部)

『古事記』に「山邊道まがり之岡上」。『延喜式』諸陵寮しょりょうりょうでは「山邊道上陵」として兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟で遠陵えんりょうとしている。
行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。なお行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚にしとのつか古墳(前方後円墳、全長220m)を真陵とする考え方もある。また江戸時代には渋谷向山古墳(現・景行陵)が陵墓とされていた。
吉村武彦は行燈山古墳について巨大な前方後円墳は王陵(天皇陵)に間違いなく宮内庁比定の崇神天皇陵はほぼ間違いないだろうと述べている(「ヤマト王権」岩波新書 2010、47頁)。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承・考証
いや〜お名前はやはりすごく長いですね(笑)
ゆっくりと地道に勉強を継続していきたいと思います。
ワンワールド國體史観(落合莞爾さん=白頭狸さん)では、「ヤマト國體が騎馬王朝を装うため、朝鮮半島の実効支配地ミマキ(=任那城)で騎馬系王族を育成した。それがミマキイリ彦イニエで、帰国して[10]崇神天皇になる。」とあります。

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