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それは一つの奇跡

先日姪が産まれた。

10月24日。朝3:30。

面会も出来ない私は、自分の家からLINEで近況を母から実況してもらいずっと起きていた。

特別ワクワクしていた訳でも、緊張していた訳でもない。
ただ、22年間共に生きていた『姉』が『母』になる時を記憶に焼き付けておこう。そう思っただけだ。

2400gと少し小さめで産まれた人生の主役は、里帰り出産した私の実家で家族の中心となってフゲフゲと動いている。

1週間の入院を経て初対面した姪はあまりにも小さくて、ホゲホゲとしていて、柔らかく、温かい。
人間の遺伝子レベルで「守らなければ」と思わせる仕組みを十分に発揮した子だった。

実家には祖父母も両親も健在なので、ひいじぃじとひいばぁば、そしてまだ50歳の若ジジと若ババがいる訳だ。
みんなデレデレである。無論、私も。


ぶっちゃけ姉の妊娠には反対の気持ちがあった。
彼氏と同棲して1年経たずに妊娠。デキ婚。
それをあたかも「特別なんだ」と自慢したげに話してくる姉を良い気では見られなかったのだ。
散々私の旦那のことは文句言ってたくせに、、と妹ならではの不満を無きものには出来ない。

しかし産まれた命に罪は無い。
どんな理由で、どんな経緯で産まれたにしろそれは一つの命であることに変わりはないのだ。


さて命とは奇跡的なもので、こうして姉と姪は元気に生きているが母子ともに健康であることは当たり前では無い。

それも先日、牛が流産したことも相まって私はそう感じている。

牛の流産の理由は気温差であると推測される。
後産(人間で言う胎盤)が、産まれて居ないのに膣から垂れていた。
「ありゃぁもう無理だ」
義父がそう言った次の日、糞尿と一緒に小さな『ソレ』は落ちていた。

猫くらいのサイズの『ソレ』は異臭を放っていた。
多分、だいぶ前に腹の中でもう死んでいたのであろう。
土手に埋めてやった。

さらに言うなら先日、牛が出荷されていった。
ホルスタインは乳牛のため基本出荷されない。

どういうことかと言うと、もう乳を搾る元気は無く、食肉になるために屠殺されるからだ。

屠殺場まで持てば御の字、と言ったくらい衰弱した牛はトラックに積まれて肉になる。
肉になってくれれば、輸送費含めてトントンの値段にはなるだろう。
「自分の最後にかかる金を、自分の肉で払うんだ」
と旦那は言っていた。

なんとも切ない話だ。

死んだ牛は肉にはなれない。
そうすると『屠殺』ではなく『処分』になるので、お肉代は発生しない。
ただ輸送費などのお金がかかっておしまいなのだ。
だから死ぬ前に見切りをつけて、出荷する。

「コーチ!まだやれます!!!」

というスポ根精神は通用しないということ。
まだやれる状態で出荷しなくては意味が無いのだ。


さて切ない話をしてしまったが主役は姪。

写真は姪と私の手だ。

産まれる腹が違ったら、きっとお前は牛になっていて、乳を搾られていたかもしれんぞ。

と新生児に話しかけてやる。
姉には「やめてくれ」と言われる。

お前はホカホカ健康体で産まれてきたけど、もし牛だったら堆肥の中に産み落とされて………


「ちょっと」


すみません。

イジメたい訳ではなくて、お前の奇跡を私は感じているだけなのだ。
こんな例え話しか出来なくてごめんなぁ。
たくさんお前の服を抱えて買ってくるジジとババ。
お前を覗き込んでニコニコするひいじぃじとひいばぁば。
こんな恵まれた環境に、激痛と共に健康体で産み落としてくれたお母さん。

一つの奇跡の塊が、お前だ。

頭を撫でてやると、大人しくふげふげとしている。
お前は幸せになるために産まれてきたのだ。

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