見出し画像

おじさん小学生の読書メモ35回目

久々に「森の生活」を読むと、面白い感想を抱くことができる。

ソローは俗世の人々の無駄と非効率を嘆いて、その根拠を理路整然と述べているが、実は恐るべきことに、その大衆の愚かさ、間違い、放蕩こそが、人類により巨大な豊穣をもたらすものであるのだ。ということを見抜いていない(意図的に無視しているにしては感情的すぎる)

こういうことは、自分もまた陥りやすい罠を表している。他人の愚かさには、それなりの由来と効果があるという事実を忘れて、嘲ったり罵ることは、その対象以下に成り下がることでもある。

だから断罪するのではなく、「私には合わない」と主張するにとどめる。無論、こんなことは人間性や気高さではなく、単なる自己防衛のセオリーでしかない。

ソローは森の生活がめっちゃ好きだからやっている。それだけでいいはずで、「このような最も賢い生活を、他の人々が選ばないことが甚だ疑問」である必要はないし、それを表明するなら別な作法においてであるように思われる。

と同時に、ソロー側にもまた、その時代背景や個人的な経験と特性において、そのように振る舞い、また発言する由来と一定の効果があったのだろう(じゃなきゃ極東にまで届いて文庫にならないもんね)

「レヴィナス(佐藤義之)」では、また「エレメント」についての解説に入った。

自己同定における「同」が「le Même」と呼ばれることは、ネットミーム(Meme)を連想させて面白い。贈与は他なるものを同なるものに強制変換させるバグ技かもしれないと言ったことがあったが、それをMêmeとMemeの観点から考えることに…何かがあるような気もしなくもない。

「贈与の謎」ではレヴィ=ストロースに対してゴドリエが痛烈な批判をしながら、自身の主張への地ならしを進めている。交換と非交換、契約と非契約の両者が社会を社会たらしめる。その時、象徴界に属するものは片翼にすぎない。社会は時にヤンキーであり、時にインテリであり、両方でないことがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?