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国の境の狩野川沿いに400年、彼のご先祖は防人だったか

河川を境に国どおしが相まみえる、静岡県沼津の狩野川も古来そうだった。後北条氏と武田氏が狩野川河口付近でにらみ合った。川の右と左、400年以上もそこに住む芹沢さんは左岸、北条方だといいます。

何年かぶりで訪ねた沼津の芹沢さん、商談後に駅まで車で送ってもらう道すがら歴史話になった。彼の家には、400年さかのぼれる系図が残っており、それによると代々この地に住んでいるという。

400年以上前の関東といえば、武田と北条に上杉を加えた諸侯が和戦を繰り返したころ。信玄が死に勝頼になってから姻戚の北条とも小競り合いをはじめ、その前線基地が沼津にあった。三枚橋城、天正7年(1579)に狩野川河口の右岸に築城された。沼津駅から南に下りて狩野川にあたる手前です。

それに対して北条方の前線拠点は狩野川の支流、湧水で有名な柿田川との交点にあった戸倉城です。その少し下流には同じく支流の黄瀬川があり、北に遡上すれば御殿場方面に達します。

この黄瀬川から狩野川河口にいたる線が武田方と北条方の国境だったようです。戸倉城はその国境線の左手、一方の三枚橋城は右手で相対します。その間約5km、文字どおり「前線砦」ですね。そして芹沢さんちは戸倉城よりさらに前方、三枚橋城の川向いにあります。

勝頼の死後(天正10、1582年)、三枚橋城は徳川方松平忠次が城主となり以後大久保忠佐を最後に廃城となった。また、秀吉による小田原城開城のあと北条氏は大阪に移封され、河内狭山藩で明治維新をむかえた。家康との縁故関係による待遇だといわれています。

芹沢姓の出自は相模国高座郡芹沢村(今の茅ヶ崎市)がルーツだといわれています。芹沢さんのご先祖さんは、北条方防人として狩野川に移り住み、大変な激動の世を渡ってきたのではないかと想像します。

そうそう、作家の芹沢光治良さんも沼津出身です。狩野川河口付近の我入道の漁師が出自で、やはり左岸です。

次回の沼津は金曜日にします。芹沢さんちの系図を見せてもらい、図書館に行って狩野川の歴史と「芹沢」文献がないか聞いてみたい。こんな余裕のもてる出張ができればと楽しみにしています。