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赤信号が変わるのは待てない

昼間や交通量の多い時間帯、それに、小学生がいる時は別。「すきあらば」との身構えでチャンスをうかがい、道路の信号機が赤でも、安全そうなら道を渡る。そう、赤信号が変わるのは待てない。

中国出張が多い時があった。田舎の道はともかく街中でも、交差点じゃなく、信号のない道路で横断する姿を見、ある意味、合理的であると納得した感があるとともに、彼の国の国民性かと思ったものだった。チャンスがあれば行けるところまで行く。ビュンビュンと車がスピードを出している中、広い道路の中央分離帯に人が大勢立っているのをよく見かけた。

それに感化された、というより、もともと自分の責任で道路を横断していたクチなので、彼の国の「渡り方」を見て心を強くしたのを覚えている。

「信号を待つ狭量」というエッセイが新聞に載っていた。金原ひとみさんだ。博多の街での信号待ち、「長い。長いね。」と言いながら、3分くらいは赤のままを待つ。まわりの人は「長い」と思っている様子がうかがえず、自分がせっかちである可能性を疑い始めた。彼女はフランスにいた時を思い出し、鷹揚にかまえて信号待ちしようとしたが、苦痛に耐えられない自分の所作を描いている。

信号待ちがエッセイになる。さすがだと思いながらも、彼女は赤で渡ろうとする意識がないと気づいた。そんなものなのでしょうか。

朝早くに都内を散歩する。クルマはすくないし、来ない交差点もある。それでも黙って、じっと変わるのを待っている人がほとんどだ。先鞭をつけるつもりじゃないけれど、わたしは、チャンスをみて渡る。でも、あとに続く人はいない。