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転調 第三話


(第二部)第三話


久しぶりに熟睡できたように思う。まだ眠い目を開けると、大きなガラスが目の前に広がっている。その向こうにはスクリーンカーテンであろうか、無地のクリーム色に覆われているだけだった。小さな部屋にいるようだった。床には何も敷いておらず。白い板の様な硬い物が体に当たっていた。不思議と痛くない。
えっと、私は確か、以前に人生の灯を自分で消したのではなかったか?ここは、死後の世界? それとも病院?
部屋が暗いので電気を点けようと、スイッチを探したが見つからない。そもそも上を見上げても電球一つない。その代わり、右側には赤い大きなプラスチックの家具であろうか?体が入りそうなくらいの窪みのある大きな物だ。荷物入れであろうか?ここがどこかをどうしても思い出せず、考えていると「お兄ちゃん」と左側から私を呼ぶ声が聞こえた。そちらを向くと、正面よりはやや小さな窓があり、その窓から可愛らしいネコ科の動物がいた。仔猫の顔をしているが、相当大きな猫だ。まさか、虎ではないよな。私と同じ位の体の大きさはあるだろうか?黒と茶色と縞模様で、お腹が白だった。巨大ではあるが優しそうな顔をしていた。でも疑問が多すぎた。
「誰? なんで喋れるの? まさか俺の話も分かるの? なんで俺がお兄ちゃん?」
「ちょっと、一度に色々聞かないでよ。お兄ちゃんだって喋っているじゃない。お兄ちゃん、私のこと忘れたの?」
 まるで覚えがなかった。どうして私が、猫のお兄ちゃん? 落ち着こうと、座って下を向いた途端、目の前に巨大な茶色と黒の縞々のファーが現れて吃驚した。
「なんだよ。毛皮か?」
 ふーっと息をつくと、巨大なファーが左に動いた。
「何? 熊? 狸? お前誰だよ!」
 飛びのくと、ファーは左方向へさっと消えた。恐るゝ左方向へ顔を向けると、巨大なファーは私の尻へと繋がっていた。そこから視線を移動させると。尻から胴体、手足に至るまで茶と黒の長い毛に覆われていた。まるでキジトラ柄じゃないか。兄ちゃんと呼ぶ猫も同じ様な柄だった。ただ、あっちは背中が茶色と黒の縞で、お腹は白い稿三毛模様だった。私の方は、お腹に白い部分はなかった。私は自分がファーに包まれている理由が分かった。何故お兄ちゃんと呼ばれたかも。
「ははぁ、茶色と黒の柄で色がそっくりだから、お兄ちゃんと思っているんだな。仕方がないなぁ、ちょっと今脱ぐから待ってて」
 私は、隣の猫に呼びかけながら、服の継ぎ目を探したが、見つからない。背中にファスナーを探そうとしたが、背中に手を回すことが一切できない。
「あれ? 肩甲骨硬いな。後ろに手が回らない。四十肩か?」
 少し焦りだすと「お兄ちゃん。何やっているの?」
「いや、おかしいな。背中にチャックがあると思うんだけど、猫ちゃん見てくれる?」
 どうやら私の話を理解しているようなので、この際細かいことは考えず、猫の力を借りることにした。小さな窓の方に背を向けてみた。
「何もないよ。変なお兄ちゃん」と、隣の猫は笑った。
 これは夢だ、私は死ねなかったに違いない。そう思って手を見てみる。白くて長い毛に覆われたモフモフが見える。猫なら『白い靴下』と呼ばれる代物だ。白い物だから代物?うまいこと言っている場合じゃない。まさかと思ったが、掌を握ってみると爪がにょきっと飛び出してきた。そっと、その爪で腹をツンツンとついてみる。チクチクと軽い痛みがあった。
「お兄ちゃん。あたしと一緒で、生まれ変わったんだよ。前はニンゲンだったでしょ?今回は猫の兄妹という事で、ヨロシクね」
「は? やっぱり夢か? 俺には妹なんかいなかったぞ!」
「今回は、って言ったでしょ!でも、お兄ちゃんがニンゲンだった時も、一緒にいたんだよ」
「も、もしかして幸子? いや、でも、そんな雰囲気じゃないし……」
「奥さんだった人でしょ? 赤ちゃん残念だったよね。あたしも悲しかった」
「え? 誰だろ? まさか? かすみ?」
「その名前は言わないで!あのクソ猫!思い出しただけでイライラする」
 隣の猫は、尻尾を左右にブンブンと強く振った。私には、猫を飼っていた経験から、これが猫のイライラのサインだという事が分かっていた。
「お兄ちゃんと奥さんが、あいつを甘やかすからつけ上がるのよ! あいつ、お兄ちゃん達のまえでは猫かぶって! もう!」
「仲良くなかったんだね。そっか、悪かったな」
「これで縁が切れたと思ったのに! もうすぐここに来ますよ。あのニャンカスが!」
「そうなの? かすみに会えるの?」私は頬が緩んだ。

 間もなく、目の前の大きなガラスの向こうにあるスクリーンが上がった。その直後に、背後にある白い壁が、ガタガタと音を立てて横に開いた。壁だと思っていたら引き戸だったと、今更気付く。巨大な人間の手が伸びてきて吃驚したが、自分は猫だと思い込むことで、何とか冷静さを保った。でも体の震えは止まらなかった。
「大丈夫でちゅからねぇ」と、伸びた手の主が赤ちゃん言葉で話しかけてくる。馬鹿にするんじゃねぇ、と憤りを感じたが、自分ではどうする事も出来なかった。伸びてきた大きな手に掴まれ。なすがままに任せた。掴まれて、白い箱の外に運び出された。
 運ばれた先には、大きな茶色の丸いテーブルが置いてあり、そこには、金髪でサングラスをかけた若そうな女性が座っていた。私は、大きな手からサングラスの女性の胸元へと移された。
「こちらは、お客様の予約された、ノルウェージャンフォレストキャットの男の子です。ノルウェーの森に生息する、由緒正しい大きな猫ちゃんです。神話では、女神様の車を引いていたともいわれています。もうすぐ四か月です。二回目のワクチンは間もなく接種予定です。今ご購入して頂いても、三回目までのワクチンは当店でサービスさせて頂きます」
 始めに私を掴んだ大きな手の主は説明している。話の内容からして、ここはペットショップで、さっきまではショーケースに入っていたことを私は漸く理解した。
「いやぁん、超可愛い! 着ぐるみみたぁい。イイんですか? 今日連れて帰っても?」サングラスの女性は尋ねる。
「もちろんです。ちなみに、あちらは同じ母親から生まれた女の子です。背中の黒と茶色の柄がこの子とそっくりでしょう?あちらの子はお腹が白いのがチャームポイントなんですよ。この二人、仲が良くて、お世話してても、お兄ちゃんと妹って感じがいつもすると、他のスタッフも言ってますよ」
 私は、女性の胸からテーブルに視線を移す。エプロンをかけた女性が、さっきまで私と喋っていた猫を抱いて連れてきていた。エプロンをかけた女性は、ペットショップの店員という事か?
「いやぁん、この二頭を引き離すのは可哀想! どちらもあたしが面倒見ますぅ」
 サングラスの女は、そう言うと、財布からカードを取り出した。なんだ、この頭の悪そうな女は?喋り方はまだしも、猫をもう一頭衝動買いして大丈夫なのか? 私はこいつと一緒に暮らすのか?私は、抵抗しようともがいてみたが、無駄だった。
「やーん、この子喜んでるぅ」
「この子は元気一杯ですよ。良かったでちゅね。こんな大スターに飼ってもらってね。きっとおうちも大きいでちゅよ」
「いやーん。大きくなんかないですよぉ。店員さん、トイレとお皿もお願いします。キャットタワーも大きなものをください。すみません。お店の開店前に来ちゃったりして」
「いいえ、お客様が営業時間にお越しになられると、ファンが詰めかけてパニックになりますからね。お気遣いありがとうございました。では、こちらが契約書と注意事項です」
 話は私と猫の意思とは関係なく進み、二頭は、それぞれ別のキャリーケースに入れられた。

「お兄ちゃんだけならともかく、何で私まで? 良かったね、あいつに再会できて」
 車のエンジン音がする中、キャリーケースの隙間から、猫が私に話しかけてきた。声に嫌味がこもっている。
「やーん、フローレンスちゃんが鳴いているぅ。どうしたの?」前方のシートから、サングラスの女が振り返ってきた。
「お前、フローレンスって名前になったらしいな。良かったな」
「あの女、センスないわね」
「似合ってるぞ、キャハハ」
 私は可笑しくなってきた。サングラスの女は再び振り返る。
「やーん、辰則も喋ってるみたぁい。本当に二人は仲が良いのね」
「タツノリだと? 俺タツノリ?」私はがっかりする。
「良かったね。愛する飼い猫に名前まで付けてもらって。タツノリ兄ちゃん」
 ふと聞きたかったことを思い出す。
「そういえば、フローレンス。お前、俺と一緒に居たって言っていたよな?誰だったんだ?俺はどうして今、猫になっているんだ?」
「その名で呼ぶの止めてくれる?お兄ちゃんが何故猫に生まれ変わったかなんて、分かる訳ないじゃない。私の事、覚えてないか。そうだよね」
「勿体ぶるなよ。人間だった頃の俺は、前世って事か? どうして分かる?」
「私、前世が植物だったからね。コミュ力高いんだ。桃だよ。思い出せない?以前はお話しできなかったけど、私も猫に生まれ変わって、やっとお兄ちゃんとお話しできるね」
「えーっと、……ベビーベッドの桃子かぁ。いやぁ、ベッドに魂みたいなモノがあるとは思わなかったからな」
 私は戸惑いながらも、この話を受け入れないと混乱しそうだったので、形だけでも信じてみる事にした。自己欺瞞ってやつだ。いつか読んだ本にも、植物には不思議なコミュニケーション力があるとか、書いてあったし。
「うるさい猫共だなぁ。だから、俺は犬がいいって言ってたんだ」
前の席から男の低い声が聞こえてきた。振り返らないところを見ると、運転席に座っている様だった。
「犬だって吠えるじゃん。良いじゃない、賑やかで」と女が答えた。
「お前がそう言うなら、いいけどよ」
 私は、自分の元飼い猫を『お前』呼ばわりされて、少しむっとした。
「桃子、運転席の男は誰なんだ?」
「お兄ちゃん、あの男、機嫌悪そうだから、今は静かにしよう。あの男から危険な臭いもするし。家に着いたら説明するね」
 車は、薄暗いトンネルのような所に入り、やがて停車した。新居に着いたのだろうか?

 キャリーケースから出されると、そこには絨毯が敷き詰められた、広大な空間が広がっていた。どうやらリビングルームの様で、低いテーブルと巨大なテレビ、部屋の隅にはギターが何本か立て掛けられていた。ギターに目を凝らしてみると薄っすらと埃があるのが気になった。部屋の壁沿いには、キャットウォークと言うものか、長い棚のような板が、何枚も壁に打ち付けられていた。長い板は、階段の様に、一枚、また一枚と、高さを変えて備え付けられていた。私は、喜んだ振りをして、そのキャットウォークに登って、一番端の窓際まで近付いて行った。
「キャー、辰則が気に入ってくれたみたいよ。早く降りておいで、首輪つけてあげるからね。辰則は青かな?」
 女は、青い革でできた紐の様な物を振り回している。女の声を背に、私は窓の外を見る。空と東京タワーの様な塔しか見えない。桃子が後ろから追って来た。
「どうやら、高層マンションみたいだな。しかも都内の」
「あの女、金持ってるもん」
 桃子は当然、といった顔をする。「あれよ、あれ」
 桃子の視線の先を追うと、テーブルの上にビラの様な物が置いてあった。私は、キャットウォークから飛び降りて、桃子も続いた。ビラはカラーで印刷されていて、女の顔がアップで映っていた。飼い主になる女性と同一人物の様だ。顔の下にはJelly.Tと印字されていた。
「これ、かすみ? ジェリーティーって書いてあるけど……」
 私は桃子に聞きながら、女性の方を見た。少し離れた場所で、さっき車内で怒っていた男と、キャットタワーの配送時期について話し合っている。サングラスを外した女の顔は、かなりの美人だった。全体的に小顔で、目はアーモンドの様にくっきりとし、鼻は高めで、唇はふくよかで、時々アヒルの様に尖らせる。それがまた、可愛らしさを増していた。
「お兄ちゃん、見過ぎ。良かったわねぇ、あいつ、猫の時も外見だけは一流だったもんねぇ。今はジェラートっていう名前らしいよ」
「なぁ、このスペルで何故ジェラートなんだ?」
「あたしに聞かないでよ。あたし文字よくわからないし。頭が悪いんじゃないの?」
「で、かすみは何の仕事をしているんだ?」
「タレントらしいよ。テレビによく出ているって」
「お前詳しいな。それも植物の能力でわかったのか?」
「いや、ショップの店員が噂していたのと、バックヤードで流れていたテレビで」
 私は、チラシから離れて、部屋を壁伝いに歩いてみた。不思議なもので、自分が猫だと自覚してから、目新しいものは鼻で臭いを確認しないと気が済まないような気がしてきた。カーペットの小さな糸くずから冷蔵庫まで、一つ一つ確認しながら歩く。後ろからかすみの「キャー、楽しそうに歩いている!」という歓声が聞こえる。ギターに近づくと、男の「おい、ギターに近づくんじゃねぇ!」という声が聞こえた。私は大きな声に吃驚して、反射的に声の主へ向きを変え、耳を倒し、背中をラクダのこぶの様に持ち上げる姿勢をとった。声の主の男は、中年にさしかかる年だろうか、強面で、目は大きく見開き、鼻は低く、両耳へ長いもみあげを垂らしていた。
「サアタちゃん、やめなよ」と、かすみの声が聞こえて、男は私に近づきかけるのを止め、私もこの反射的にとった姿勢を解除した。どうやら、この姿勢は猫なりの戦闘態勢の様だ。
「なぁ、桃子。このギターは男の物なのか?二人は結婚しているのか?」
「そうみたいね、あっちに、あの男のポスター張ってあるのを見つけたよ。行きましょ」
私達は、リビングを通り抜け、空いているドアの隙間から、別の部屋に入った。巨大なベッドらしい物が置いてあり、天井にはポスターが貼ってあった。私は、ベッドの上へとジャンプして、ポスターを見に行った。ポスターの写真では、さっきの短気な男がギターを持ち、別の陰気そうなくせ毛の長髪男がキーボードの後ろに立っていた。バンド名であろうか?大きな文字でHevie Loockと書いてある。ギターの男の写真の下には地金沙汰と書いてあった。
「なあ。なんて読むんだ? ヘビエルーク? チキンサタ?」
「あたし文字分からないって言ったでしょ。確か、『ヘビーロックのじごくのかねのさあた』とかショップの人から聞いたことあるよ」
「え? スペルも漢字も滅茶苦茶じゃないか?わざとか?」
「知らないわよ」
私は、この男の所属するバンドは、売れていないと直感した。
「この沙汰さあたとやらは、恐らくテレビに出たりしていないんだろ?」
 このネーミングセンスで売れたなら世も末だ。
「昔は少し売れたらしいって。今は同じ事務所のジェラートのおかげで生活できているんだって。ヒモだって店員たちが言ってた」
「かすみめ、俺は、お前にヒモを養わせるために工場で一生懸命働いていたんじゃないぞ!」
「お兄ちゃん、前世を持ち出さないの。それに、以前あいつはお兄ちゃんに養ってもらってたんだから、いい気味じゃない? 多分すぐ別れるよ。店員たちもそう言ってた」
 私は落胆して、ベッドから降りた。カーペットに紙片が落ちていた。そこには歌詞の様な物が、数行書かれていた。

   神をも恐れぬ電光石火 作詞作曲 地金沙汰

   夕暮れの教会の十字架へし折るぜ
   俺は危険なサンダーボーイ
   光速でお前を海に沈めるぜ
   俺という深海の中で
   お前はアンコウとなり俺を照らすのさ

 今時ボーイ? しかもあいつ、いい年だよな?ここまで読んで、私は眩暈がして読む気を無くした。桃子の言う『危険な香り』の正体が分かった。ある意味そうだ。
「お兄ちゃん、なんて書いてあるの?」
 桃子は、尻尾をピンと立て、口横のヒゲを前方に向けて来た。多分、好奇心のサインだろう。私は、教える気にはなれなかった。

「ちょっと! どういう事?」
 ある日、機嫌を悪そうにしていたかすみは、夜に沙汰が帰ってきて部屋に入るなり、手に持った雑誌をテーブルに叩きつけて怒鳴った。
「あ、それ? 本気で信じてるの? い、いや打ち合わせでさあ……」
かすみが指した先には、週刊誌が広げられていた。桃子はトイレ中なので、私が週刊誌を見に行くと、写真と記事が載っていた。写真では、二人の男女の影がキスをしており、記事のタイトルには『裏切りの愛! 地金沙汰。恋人ジェラートの小遣いで元モデルと朝までデート&路チュー!』とあった。タイトルだけで、もう読む気がしなくなった。
「お兄ちゃん。なんて書いてあるの?」
 桃子はヒゲを前方に向けて寄って来た。
「桃子、いいからあっちで遊ぼう。ここは恐らく戦場になるから」
 二人でベッドルームに入り、遊ぶことにした。後ろではグラスの割れる音がする。
「痛た、本当だって。プロデューサーがさぁ……。危ないって。アイロンはやめろ! あいつ酒癖悪くてキス魔なんだって! 多分」
 私は、せめて売れてから浮気しろよ、と思いながら、尻尾を揺らせて、桃子が飛び掛かって狩りの練習になる様にしてやった。

 数日後、私達猫は、かすみと体を引き摺る沙汰に連れられて出かけた。私はかすみに、桃子は沙汰に抱っこされて、建物内に入った。長い廊下をくぐって着いた先には、無数の照明に照らされた茶の間が見えた。その前にはテレビカメラが何台かあり、それぞれにコードが複雑に絡まっていた。本物を見るのは初めてだが、ココはテレビスタジオだと確信した。
「はい、ジェラートさんお疲れ様です。この二匹のちゃん猫と沙汰さんがゲストという事で、こちらでお願いします」
 色眼鏡をかけた、胡散臭そうな男が、我々を所定の位置へと誘導する。
「こんな時に、彼氏と出演なんてツイてなーい」かすみは不満そうに言う。
「じゃあ、リハに入ります。3,2,1」
 私を抱っこしていていたかすみ、さっきの不機嫌とは打って変わって、明るい声で「こんにちは『ジェラートのねこねこにゃんにゃん』の時間がやってまいりました。司会は、今日も私ジェラートが務めさせて頂きます。今日は、なんとゲストにダーリンが来てくれました。ヘビーロックのリーダーで、ギター兼ボーカルの地金沙汰さんですぅ、拍手ぅ」と私の両手を持って、無理やり拍手させた。かすみ、肉球で拍手しても音は出ないぞ。紹介された沙汰は、恥ずかしいのか、そのようなキャラ設定なのか「どうも、沙汰です」といつもより更に低い声で答え、かすみの近くに寄る。
「今日は、私達が最近飼い始めた猫ちゃん達も紹介しますぅ。今抱っこしているのが、辰則君です。ノルウェージャンフォレストキャットで生後六か月です」
 かすみは、そう言いながら振り返り
「あちらの炬燵の上に寝ているのが、妹のフローレンスちゃんです。同じく生後六か月です」
 かすみは喋るのが上手く、しかも仕事中とプライベートの気分を見事に切り替えていた。かすみの成長を、私は素直に喜んだ。
「ハイ、オッケーです。オープニングはこの位で、次にノルウェージャンの解説VTR挟みます。で、その次に沙汰さんを紹介するVブイを撮りたいので、ギターを弾いて頂きます。ギターは持ってきて頂きました?」
 色眼鏡の男は沙汰に確認する。恐らくこの男はディレクターって人種だ。
「持って来ましだけどぉ。昔のVTRで良くないですか? 演奏シーン」
「いやいや、ちゃん猫達と一緒に入って、弾いて頂きたいので」
「わかりました」
沙汰は渋々承諾する。
「お兄ちゃん。沙汰ってギター弾けるの? 練習してるの見た事ないけど」桃子が囁く
「俺も」
 私と桃子は、沙汰の近くに誘導させられ「ジャンジャカジャン」と騒音を聞かされた。これに辟易しながらも、喜んでいる風を装って、沙汰の後ろで飛び跳ねたり、沙汰の足に猫パンチを入れてみた。
「いいねえ。じゃあ、一旦休憩入りまーす」
 ディレクターらしき男がそう言うと、カメラマンや他のスタッフたちは、持ち場を離れ、三々五々に集まり、休憩か打ち合わせの様な雰囲気を作っていた。沙汰は、赤いギターの余韻を楽しむ様に。ギターから延びるコードをアンプに繋げたまま、弦を引っ張って「キュイーン」と音を鳴らして悦に入っていた。
 私から見ると、子供が久し振りにおもちゃで遊んでいるかの様だった。こいつ、長い事ギターに触っていなかったな。音がうるさくて不愉快なので、桃子を連れてセットの炬燵の所まで下がった時、スタジオがざわついた。
 
 
 スタジオの入り口に背の高い女性が立っており、スタッフたちの視線が一斉に注がれた。あちこちでスタッフ達の囁きが、微かに漏れている。私は、素知らぬ顔をしつつ、耳をピンと立て、近くで話している一組の会話を盗み聞ぎする。
「あの人、確か、週刊誌の」
「えぇ? 沙汰さんとキスしてた?」
「いいのか? ジェラートさんもいるぞ。修羅場になるぞ」
「よく来れたな。大事にならなきゃいいけど」
 その女性が沙汰を見つけ、手を振る。かすみは緊張の面持ちで女性を睨む。沙汰は一瞬、かすみに一言二言話したかと思うと、手を振りながら女性の方へ向かって行った。沙汰は、照れ笑いを浮かべながら、入り口近くで、その女性と親し気に喋っている。残念ながら、此処からでは耳をピンと立ててそちらの方向に耳を向けても、会話の内容までは分からない。かすみが、入り口近くの二人をじっと見ている。桃子が「あたし、二人の会話聞いてこようか?」と言ってくれたが、止めた。
 私はかなりイライラしていた。ついこの間、あんな事になったのに、沙汰は懲りていない。まだ、足を引き摺るくらい痛い目に遭っているのに、まだ女と縁が切れていないのか?かすみが爆発する前に、私が止めよう。かすみにこれ以上恥をかかせてはいけない、仕事の邪魔をさせないようにしよう。そう決めた。
 沙汰と女の談笑は止まらない。私は二人を引き離すことにした。でも、どうやって? 猫の体では物理的には無理だ。ふと横を見ると、さっきまで沙汰が弾いていた赤いギターが立て掛けてあった。ギターはアンプと繋げたまま放置してあり、アンプのスイッチは点いたままだった。何をしていいのかわからないが、とにかく音を出して沙汰の気を逸らそう。私はギターの前で、後足を支えに立ち上がり、前足でギターの弦を六本共素早く引っ掻いた。
「ジャーン!」
 アンプから大きな音が出て、その場にいた全員の視線を背中に感じた。そのまま、何度も弦を引っ掻いた。
「ジャンジャンジャン、ジャジャジャジャジャーン」
 音が続く中、ついでに六本ある弦の内、半分くらいを人差し指の爪で引っ掛けて引っ張りながらこすってみた。「キュウィーン」と音が変った。背中に拍手の音やざわめきを感じ、私はちょっと意外だったが、気分は悪くなかった。
 沙汰が慌てて駆け寄ってきた。
「馬鹿野郎! 俺のギターに何を……」
「あんたが悪いんでしょ! 商売道具のギターを置きっぱなしにして! 辰則は悪くないよ。ヨシヨシ」
 かすみが私の頭を撫でながらかばってくれた。そうだ! 猫のした事に一々目くじら立てるんじゃない! 私だってかすみが何をしても怒ったりしなかったさ。ベビーベッドの手摺りを齧った時だって。その瞬間、はたと気が付いた。そうか、それで桃子はかすみを嫌っていたんだ。申し訳ない。視線を桃子に向ける。桃子は我関せずと、カメラの近くで毛繕いをしている。
 かすみが「怒鳴らなくてもいいのにね。沙汰が悪いよね。可哀相に」と、私を抱き上げようとした時であった。
「ちょっと待ってください。この猫ちゃん。リズム感あるわ」
 後ろから、女の声がした。振り返ると沙汰と噂になった女が立っていた。しまった、皆の気を引いてトラブル回避したかっただけなのに。かすみと女の距離が近くなる。かすみ、キレるな!私は不安そうにかすみを見上げる。こうなったら、一触即発を避けるために何かするか?どうする?甘い声でも出すか?迷ってオロオロしてしまった時に聞こえたやり取りは意外に静かなものだった。
「ジェラートさんですね。初めまして、私……」
「知っています。元モデルで音楽プロデューサーのNagomiナゴミさんでしょ。沙汰と泥酔しながら打ち合わせされていた」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あの、私、酒癖悪くて、沙汰さんとは何も……」
「わかっています」かすみはにっこりと笑う。
「沙汰とは同じ事務所なので、お話は聞いていました。ナゴミさんの酒癖も」
「おい! 俺の事信じてたなら、なんでこの前あんなにキレたんだよ」
 沙汰がくってかかった。お前は黙ってろ! 私が沙汰に向かってフーっとうなるのを、かすみが撫でて止めた。
「全く、手前てめえはよ! 手前の浮気に怒ってたんだねぇよ! 再起をかけた大事な時期に、他のスタッフも連れずに、二人っきりで酒飲んで、あっさり写真に撮られる無防備さに呆れてんだよ!」
 かすみは沙汰を思い切り睨む。私は、心の中で拍手した。かすみ、ちょっと怖いけど、立派な大人の人間になったな。昔は、私の後を追い回してばかりだったのに。しっかりしたいい奥さんになれるぞ。いや、別に沙汰の奥さんって意味じゃないが。
 沙汰は「わかったよぉ。今後は気を付けるって」と言いながら、胡麻化すかのように、手を伸ばして私を抱き上げようとする。
「ちょっと待って、沙汰さん。この猫ちゃんをギターの前に置いてみて。スタッフさんすみません、スピーカーとUSBコード持ってきて下さい」とナゴミは沙汰や近くのスタッフに指示した。ナゴミが何やら機械を取り出して、コードでスピーカーに繋ぐ。「タン、タン、タタタン」と小気味いい音が聞こえて来た。ドラムだ。
「何やってんすかぁ」沙汰が口を尖らせる。
「しっ! いいから」
 私は、自分に何を求められているのかが分かった。私はギターの前で後足で立ち上がり「タン、タン、タタタン」の終わりの一拍の間に、タイミングを合わせて「ジャーン」と弦を引っ掻いた。それを数度繰り返した。
「この猫ちゃん、辰則君だっけ? この子わかっているわ! 私にいいアイデアがあるんだけど。沙汰さん、番組の収録終わったら、時間作って頂戴。スタジオ予約しておくから。もちろんイェムさんも呼んでね」
「はあ、わかりました」
 イェム?もしかして、ポスターに写っていた陰気そうな男か?『源家夢』って書いてあったな。あれでイェムって読むのか。誰がつけたか知らないが、このネーミングセンスで売れていた時期があったことに感心した。
 
 
 撮影が終わり、私達はキャリーケースに入れられ、車で運ばれた。着いた先は、音楽スタジオってやつらしい。かすみが、猫用簡易トイレを持ってきてくれていたので、外出ばかりの一日だが助かった。
 キャリーケースから出されると、そこはフローリングの床に、ドラムセットやスピーカーが所狭しと並べられた部屋だった。キーボードも置いてあり、その前には長髪で目が窪んだ中年男性が立っており、何やらでかいキーボードのスイッチを触っていた。スイッチをいじる度、ドラムやベースの様々な音が聞こえる。これはシンセサイザーっていう機械らしい。この人が家夢か。ポスターの写真よりも根暗で幸薄そうに見える。
 私は、ドラムセットのシンバルに登って様子を覗うと、部屋の一角には大きなガラスが張ってあり、その向こうに小部屋が見えた。小部屋にはナゴミとかすみと桃子が見えた。桃子は心配そうな顔をして、かすみに抱きかかえられていた。
「じゃあ、沙汰さん。椅子に座って! 辰則君が弾きやすいように、ギター下げて! コードは沙汰さんが押さえて」
 室内のスピーカーからナゴミが指示する。私と沙汰はギターを挟んで向かい合う形になった。沙汰がギターを縦に置き、左手でネックの部分の弦を押さえる。音の高さは沙汰に任せるらしい。そして私はギターのボディという太い部分を、引っ掻いてかき鳴らすことになるらしかった。二人の顔が映るようにであろうか、カメラが私と沙汰の真横にセットされた。
「では、沙汰さん家夢さん。ちょっと音出してみましょう。一発録りで二人の音を同時に録ります。まずは新曲『銀河でお前とビッグクランチ』お願いします。」スピーカーから指示があった。
 無音の切り裂くように、沙汰のボーカルソロではじまる
「銀河鉄道のぉ、星降る空で、お前のエントロピーは増え続ける、どこまでもぉ」
 私は後足で立ち上がり、好きなところで、弦を引っ掻いてそれに続いた。そのあと、家夢のシンセサイザーが設定した音と思われる、ドラムの打音や、ベースの「ズンズンズン」が混ざった。私は、興奮して、夢中になって弦を引っ掻いた。途中で後足が疲れて立っていられなくなり、四つ足に戻ると、そこは沙汰が弾いてフォローしてくれた。
「良いじゃない! ちょっと、プロモーションビデオ代わりに動画サイトに上げてみるね」ナゴミは嬉しそうな声で言った。
 
 
「キャハハハ、何これ」
 マンションにあったかすみのパソコンで、ヘビーロックの新曲として挙げられた動画を見て、桃子は笑う。
「お兄ちゃん、息切れしているじゃない。面白―い。沙汰、左手だけしか使ってなくて間抜けだし」
「桃子、こっちの方が面白いぞ」
 私は、パソコンのキーボードを爪で操作して、別の動画を桃子に見せる。そこには、真っ黒な背景に浮かび上がった長髪の男が、下を向いて喋っていた。
「俺、沙汰さんには感謝しているんです。ホームレスだった俺を『バンド組まねぇ? 立っているだけでいいからさ』と誘ってくれて。家夢って名前までつけてくれて。初めは『家無し』って漢字だったんですけど、家に住む夢が叶うように『家』と『夢』って漢字に変わったんです。それから超練習しましたよ。詳しくは、明日発売の『家夢。リストラ男がロックで家を借りてやる』を読んでください。いやぁ、沙汰さんマジ聖人だし、ギターテクは神ですわぁ」
 最後の一文は、絶対沙汰に言わされているな。桃子はひっくり返ってお腹を見せて笑っていた。


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