転調 第二話
第二話
本社から出向となった寒川が新しい工場長に就任し、私を含め、管理職にいた者の多くは、その立場を降りて生産ラインの現場で働く事となった。私自身は、下処理室に配属された。十数年ぶりに手に包丁を持ち、蛸の足を切る。一日中この作業を、外国人留学生二三人と一緒に行った。
湿気を含みジトジトした窓のない部屋の一角で、私たちは机の上にまな板を置き、作業を始めた。巨大な蛸の足がトレイの上に山積みになっていて、それを一本掴む度に、ぬるぬるとした感覚が伝わってくる。それを一センチ程になるように包丁を入れていった。
ふと目の前を見ると、『トゥアン』と名札のついた留学生がゴム手袋を両手に履いて蛸を切っていた。安全ルールでは『アラミド手袋』と呼ばれる金属製の防刃手袋をすることになっている。
「トゥアン。アラミド手袋をつけてください」
「ハイ?」
私は、部屋の隅のテーブルに置かれていたアラミドを、彼女の目の前に持っていく。
「ノー、ノー」
「危ないから」
「使いにくいデス」
「ルールだから!」
「聞いたことないデス」
ふと、他の留学生を見ると、誰もアラミドをつけていない。私は諦めて、作業を再開した。
現場作業に慣れてきた頃、宇似医師が寒川新工場長に連れられて、作業場にやって来た。この姿を、外部の人間には見られたくはなかった。私が下を向いて作業していると、寒川は宇似先生に「ほら、そこに前工場長が居ります」と私を指した。
「工場長! ご無沙汰しております」
宇似医師は駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。もう工場長ではないですが」
「あれから、安全衛生委員会も職場巡視も何も行われていないんです。今日は、寒川様にお願いして、巡視だけはさせて頂きましたが」
宇似先生は続ける。
「ただ、委員会も巡視のやり方も、寒川様や新しい管理職の方々は何もご存じないようなので、工場長から教えてあげて下さい」
宇似先生は、私の目をじっと見てくる。
「私は、もう工場長ではありませんので……」私は目を逸らした。
「工場長、大丈夫ですか? かなりお疲れではないですか? 顔色良くないですよ。眠れていますか?」
先生が顔を近づけてくる。早く去ってほしいのに、余計な世話を焼こうとしないで欲しい。私は居たたまれなくなった。
「大丈夫ですから、業務がありますので」
寒川が躊躇う先生を、別の部署へと案内していった。
「幸子、かすみ、ただいまぁ」
私は疲れた体を引き摺る様にして帰ると、かすみだけが尻尾を立てて「グルニャァ」と迎えてくれた。
部屋のドアを開けると、妻がドライバーを片手に、ナチュラルなカラーの木の枠と格闘していた。
「何組み立てているんだ?」
「ベビーベッドよ。通販で買ったんだけれども、自分で組み立てるものだとは知らなくて……」
私は慌てて「おい、もう臨月じゃないか!無理するなよ。俺がやるから」
妻の手から木の枠とトライバーを取り上げ、仕方なく家具の組み立てにかかった。
「このベッドね。桃の木からできているんだって」
「そうなんだ」
「この子、桃子って名前にしましょうよ」
「男の子だろ?」
「ベッドの名前よ」
「変なの。赤ちゃんの名前もまだ決めてないのに」
妻は、上機嫌で、近くにいたかすみの背中を撫でた。
この日も毎度の事ながら眠れなかった。枕元にあった本を開いてみた。妻から借りた本で、タイトルは『植物の不思議な能力』だった。そこには、植物は動物と違って動かないが、独自のコミュニケーション能力を使って進化したと書いてあった。動物の五感とはちょっと違うが、植物も音や光を感じ、各種の化学物質を感じ取り、私達が想像もつかないような多種類の情報を取得して、生存競争を有利に進めるのだそうだ。ちょっと、興味が湧く話だった。そういう意味では、植物は頭がいいのかもと感心し、今度花でも植えようかと考えているうちに、久し振りに眠くなってきた。
数日後、いつ工場長から降りたことを妻に伝えようかと悩みながら家に帰った。だが、玄関には妻もかすみも出迎えて来なかった。妻の部屋のドアを開けると、妻が布団の上でお腹を抱えてうずくまっていた。かすみは、そんな妻の周囲を心配そうに歩き回り、妻の下腹部の臭いを嗅いでいた。
そこに目を向けるとシーツが赤く染まっていた。赤い染みを辿るとシーツから妻の尻全体を覆っているのが分かった。
「どうした?」
私は大声で妻に呼びかける。
「昨日から、お腹が痛かったんだけど、陣痛にはまだ早いと思って様子見ていたら、痛っ!」
「すぐ救急車呼ぶからな!」
やがて、家の外から遠くにサイレンの音が聞こえてきた。
妻を乗せたストレッチャーを何人ものスタッフが引っ張り、病院の『救急外来処置室』へと運んで行った。私は長い間、待合室にポツンと残された。何が起きたのか?赤ちゃんは無事なのか?幸子は?不安の渦巻く中、漸く外来処置室から医師が私の名前を呼びながら近づいた。
「早期胎盤剥離ですね」
産婦人科の救急外来担当だと名乗る老医師はそう告げた。
「ソ、ソーキタイバンって何ですか?」
「赤ちゃんに栄養を送る胎盤が、剥がれてしまい大出血を起こしています。大変危険です」
暗い待合室で、医師の声が響く。
「大丈夫なんですよね、赤ちゃん」
「いいえ、かなり時間が経っているので厳しいと思います。お母さん自身が危険なので、最悪の場合、子宮を切除することもありますが、いいですか?」
「妻は、なんと言っていますか?」
「痛みが強いので、今鎮静剤で眠ってもらっています。なので、ご主人に承諾を得るしかないのですが……」
私は、せめて妻にだけでも助かって欲しかった。選択肢が他にない以上、子宮を取ることも承諾するしかなかった。ペンを借り、その場で手術承諾書にサインした。
手術は終わった。病室では私も妻も、燃え尽きてしまった様に茫然自失としていた。妻は、ベッドの上で上半身だけを起こして座っていた。長い沈黙の後、決意した様な眼差しで口を開いた。
「どうして、どうして赤ちゃん助けてくれなかったの?」と目に涙を浮かべている。
「赤ちゃんは駄目だったんだって」
私は力なく言う。
「よくそんな簡単に言えるわね!子宮を取らない方法があったでしょ?」
「ないって先生が言ってた」
「あのね!私もう赤ちゃん産めないんだよ?わかってる?」
妻は、突っ伏して大声で泣いた。
妻は退院して、実家に戻る事になった。しばらくは、心と体を休めたいと言ってきた。
「気が済むまで、実家でのんびりしてきなよ」
私はそう言って、タクシーを送り出した。しかし、これで妻との繋がりはぷっつりと切れた気がした。妻は戻ってくる事はないだろう。私には二人で暮らす意義をもう見いだせなくなっていた。きっと幸子もそうだろう。
心のなかで「元気でな」と声をかけ、入院中の妻の着替えなどの荷物を自宅に持って帰った。家では、かすみがベビーベッドの上で横になっていた。年の所為か、寝ていることが多い。ベビーベッドの柵も、よく乗り越えて入り込んだなと感心した。
私自身も、体が動かなくなってきた。朝早く目が覚めても、布団から出られない。何とか出勤しても、自分の体ではないかの様に重い。作業場では、同僚に返事をするのも億劫になり、笑顔を作ることもできなくなった。蛸の下処理のスピードが遅い、と工場長から注意されたが、どうしようもなく体が反応しなかった。
家に帰ると、同じく弱っているかすみの餌と水を取り替えて、布団で横になった。かすみは、ベビーベッドの上で水をぴちゃぴちゃと力なく舐めていた。私は何をするでもなくそれを眺め続けた。寝ようとしても眠れるわけではなかったが、体が動くことを拒否していた。
「俺も猫に生まれたかった。お前は寝ているだけでいいよな。俺は仕事に行かないといけないし……」
翌朝、そう呟きながら私の布団の上にいたかすみを撫でると、冷たい感触が手に伝わってきた。私は、妻が救急搬送された夜の事を思い出していた。
「お前も年なのに、幸子の心配までしてくれたんだよな」
話しかけながら、私は涙が止まらなかった。冷たくなった今、これまで、この天使にどれだけ支えて貰っていたかを理解した。ぼろポロと布団の上に水滴が落ちた。半日程、かすみを撫で続け、それから、やっとペット葬儀社を探す気になった。
かすみは、庭の隅の日当たりのいい場所に埋められた。春が近づいているとはいえ、まだ寒かった。
「かすみ、土が冷たくてごめんな。でも、近くに種を植えておいたよ。そのうちお花が咲くからな」
私はかすみの埋めた周囲に、赤いゼラニウムの種を植えた。花には詳しくないが、花屋に教えられた花言葉『君がいて幸せ』が気に入ってこれを選んだ。春に花が咲くらしいが、今年は無理だろう。でも、いつか、かすみが寂しくない様に寄り添ってくれるだろう。
かすみが眠っている上に、何個か小さな石を乗せた。
数日後の夜、私は車を走らせた。山に向かうつもりだった。静かだが遠すぎない場所。そう思いながら、ぼんやりとハンドルを握っていると『やすらぎの森の公園』の看板がヘッドライトに照らされていた。そこに向かうと、広大な敷地を持つ公園の入り口が待っていた。
入り口には鎖が掛けられていたが、簡単に外す事ができた。人に見つからないようライトを消して、公園内の駐車場に車を進めた。駐車場にも、鬱蒼とした木々が傘を差しており、それが駐車場とその奥の森の境界線を成していた。通りすがりに、二三台の車が止まっているのを見たが、人がいる気配はなかった。
私は入り口から一番遠い場所に、車を停めた。幸運にも近くには車は停まっていなかった。そこで、暗闇の中、月明かりだけを頼りに、かすみの写真をポケットから取り出した。
近くに梅が咲いているのであろうか、仄かに香りが車内にも入ってきた。私は、一旦エンジンをかけて窓を閉め、再びエンジンを切った。運転席のシートを倒し、家を出る前に二錠程飲んでいた睡眠導入剤を、追加して一シート分全部飲んでしまった。この薬もなかなか効かなくなっていたが、流石にこれだけ飲めば眠れるだろう。
「かすみ、ごめんね。色々ありがとう。お前といて幸せだったよ。仕事忙しくて構ってやれなくてごめんね」
かすみに話しかけながら、涙が頬を伝わり、なかなか止まらなかった。
大夫意識が朦朧としてきた。副作用の所為だろうか、意識は落ちながらも気分は軽く高揚してきた。よし、今だ。
後部座席に置いてあった七輪を手探りで探し、その底にセットした練炭にバーナーで火を点けた。大きな火柱はやがて小さなものに変わる。炭の香りと梅の香りが混ざり合って、お香の様だった。やがて、煙が上がってきて車の中を満たすだろう。
私は念のため、缶チューハイを一気飲みしようとしたが、もう眠くて力は残っていなかった。これでぐっすり眠れる。退職届も郵送しておいた。自分の持つ何もかもを失ってしまった。
この世界に私が残る意味などなく、私自身も世界から退場する番が来ただけだった。そう考えると、背負っていた重荷を全て降ろした所為か、ちょっと幸せな気分でさえあった。
第一部 了
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