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彗星倶楽部 高橋直宏 個展「BEACH」を観て

最近、仕事とかで気づいたら1カ月くらい経っていた。

 展覧会の感想文とい事で、彗星倶楽部の高橋直宏個展「BEACH」を観ました。

展覧会自体は2021年8月19日~8月29日に開催されていたものです。

 展覧会の会場

会場は金沢市にある「彗星倶楽部」というギャラリーは少し路地を入った住宅街の中にある小さな古民家を改装しギャラリーとしているところです。

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 金沢彗星倶楽部の外観

  古民家とても風情のある外観をしております。
  入り口には展覧会のフライヤーが展示してあるので、それが目印。

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  自宅を改装したギャラリーっぽいので、知らない人が初見で入るのは難しそうなところですが、そう思うのは僕だけかもしれません。
 ごめんくださいと玄関を上がり、オーナーの人とコンタクトを取ろう!
 芳名帳に名前を書いたら、展覧会の文章と作品リストを渡されたら鑑賞開始だ。

「BEACH」展

 今回の展覧会は、ステートメントで提示されている課題と作品がまとまっていて、星新一のショートショートを読んだ時のような気持になった展覧会だったなと思います。
 

「BEACH」にて

 今回の個展「BEACH」には以下のようなテーマがある。

過去に行ったことや遭遇した出来事の意味や価値の決定は、今現在の自分の行動によって左右される。
だからその時の善し悪しは常に決まったものではないし、ましてや、その判断基準さえ変化する。

 これは判断を決定しないこと、保留すること、動き続けることを肯定するものだ。しかしいってしまえばこれは日和見主義的で、過去に起こった悲惨な出来事さえも正当化する危険もある。それでも、これをテーマにしたのは、すでに決定された(と思われる)価値判断にとらわれ、その枠組みの中で仮想敵を作り、誰かを攻撃、分断することを危惧するからである。それは私自身も例外ではない。だからこそ抵抗と自戒でもある。

 今展示では上述のテーマに則り、過去の作品をまた新たな素材として捉え直し再構成すること。作品に現れる表面を「ふるまい」として扱うこと。この二つを念頭に置いた。

引用元:高橋直宏「BEACH」展ステートメントより一部抜粋

  展覧会の作品のすべてが、過去の作品をまた新たな素材として捉えな直し再構成したものかはともかく、少なくとも会場の1階はそのような再構成した作品が展示してある。

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かさぶたは剥がされて(胸像)
2021

  最初に目に入ったのはこの作品は作家が大学の修了展だったかな?で展示した作品を再構築したものだ。
 この作品は展示中に鑑賞者に壊されたという過去を持っている。
 金沢美大の修了展はあの観光名所である21世紀美術館で開催される。
 そういうところなので、普段ギャラリーに足を運んだりすることがないような観光ついでに展示も見ておくかーな客層が訪れる。
 そこで起きた事件の被害者がこの胸像君なわけだ、確かその日は公開合評が行われていた日だった、本人がすぐそばにいながらの事件である。
 壊した本人は知らんかったの一点張りだったそうだとか、そんな鑑賞者の態度とか悲しい過去を伴っているからこそ、この作品のタイトルは”かさぶた”なのであろう。
 きっとその時の傷心具合が反映されているのかもしれない。

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 二階には(トルソ)も展示してあり、元は一つだったんだろうという戻れない、バラバラのフロアにあるのも、なんか意味ありげに思えてしまう。
 といいつつもステートメントにこの作品のことは触れてあり「別の作品としての可能性が掲示された」とある、タンポポのように強く生きよということである。

 

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パレットとパレット
2021年
海とモニュマン
2016年

 手前が「パレットとパレット」奥が「海とモニュマン」二つの作品が融合している。
 奥の映像にあるウルトラマン的なものは作家が大学の学部時代に制作した大きな作品で当時は円谷英二の作風に影響を受けた作品を制作していた。
 対して手前の現在の作風はさながらキュビズム的な彫刻へ変化している。
 構図的に過去と現在の対比が表現されている、さながら少年漫画で主人公が死んだ仲間を思い、背景の空にその仲間の顔が浮かび上がっているときの絵のようです。
 モニュマンという作品には作家もかつての憧れであったとあるが、憧れってなんか大人になってしまうと理解から最も遠い感情になってしまうのね。


 さて、映像には展覧会タイトルにもなっている「BEACH」が登場します。
 ビーチに関してはステートメントにはこうあります。


 気を使った「彫刻」はいかにもそれらしく見えるが、「彫刻」のようにふるまっているのか、私がそうさせているのか、分からない時がある。この疑問にいつも答えられず、その時々の応答、「ふるまい」が積み重なっていく。現在、過去、未来の「ふるまい」でまた少し変わっていく。その相対が「作品」であり「作者」なのかもしれない。どこからが自分でどこからが他人の意志なのか。その”きわ”が寄せては返す波のように触れ動く、”場”としての浜辺(ビーチ)だ。

引用元:高橋直宏「BEACH」展ステートメントより一部抜粋

 波というモノのは、背景のシルエットのように見る記号的なイメージで考えているが、よく近くでよく観察してみるとその波模様は常に変化し同じ波の状態は二度とないという性質を持っていますね。
 
 常に変わっていく「ふるまい」というのがミソです。
 波のように常に変わっていく「作品」がこのあと出てきます。

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みみずばれ
2021

 BEACHにたたずむモニュマンを見送り、古民家特有の角度が急な階段を上り、会場2階へ、ます明るくて広いです。
 
 まず目に入るのがこの作品、木彫にロープという要素が追加されることで、展示されるたびに形が変化する作品になっています。
 常に形が決まらないのが形、それが波の真髄と言わんばかりの作品で、そう来たか!という気持ちになりました。
 

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別アングル

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風向き
2021

  そしてその向かいあるのは、波の真髄をさらに発展させたこの作品。
 いくつかのパーツに分かれて、ロープでまとめられており、キュビズム的な人がたをした作品である。
 それが吊るされていることで「モビール」と彫刻の技となっている。
 つまり、さっきよりも高度な複合形態なのだ。
 
 さきほどの「みみずばれ」は木彫にロープを組み合われるで、インスタレーションという技で波の心に迫った作品だったが、この作品はそのさらに先へと発展させている。

 波は何によって起こるものだ…
 それは「風」だ。

 タイトルに「風向き」とあるとおり、モビールとの組み合わせて、この彫刻は風の影響を受け常に形がゆらりゆらりと微妙に形が変化している。

 二階のスペースには大きく「みみずばれ」と「風向き」ふたつの波の真髄に迫った作品が展示されている。
 二つは「凪」と「風」二つの波の状態を表れのようにも思えた。
 とても渋いなぁ…。

まとめ 
 まぁ、波の真髄とか言っているが、勝手言っているだけである。
 展覧会の感想とか批評文ってキチッとしなくちゃってことで、硬いコードしたいと思うと、なんか書きたい気持ちがちょこっとあるくらいの僕だとかけない、だいぶ遅れて書き上げているし、もう大学の先輩へのファンレター的な感じで書いたわ♡
 
 芸宿というアート界隈の若者の集まりがちな場なので、よくあの展示みた?作品観た?って会話をしているのを見る、ただ口頭だと「良い」でおわったりする。
 口頭でいいもうれしいしたのしいけど、本人にエンカウントしない限り言えないじゃん。
 というわけで、その「良かった」の中身をちょっと頑張って書いてみました。

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