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考えなしに常に比較している

何かの特徴を捉えて表すことは比較なしには成立しないと思う。
なぜなら形容詞そのものが比較によって意味をなすからだ。
私たちは常に物事を比較して生活している。

「大きい」という言葉について考える。
「大きいボール」というとどんなものを思い浮かべるだろうか。
バスケットボールやバランスボールなどだろうか。
直径1mなら、それは大きいボールだと多くの人は思うのではなかろうか。

しかし一歩踏み込むと話は変わってくる。
スーパーボールであれば直径5cmでも相当大きい。正直私は見たことがないレベルだ。
でも直径5cmのドッヂボールならどうだろうか。
これもまた見たことがないレベルであるが、こちらの場合は小さい。
同じ大きさでもそれが何者であるかによって、表す言葉は真逆になる。

私たちの考える「大きい」の基準はなんなのだろうか。
私たち人間の大きさと比べた時の話かとも考えるが、そう結論づけるのはまだ早い。

学校の運動場を思い出してほしい。
運動場は多くの人が走り回れるくらいの広さだ。
大きい。間違いなく大きい。
でも私の通っていた高校の運動場は狭いと言われていた。
実際見た感想としても相当小さい運動場だった。
普通に考えてあのスペースが家の庭であれば大きすぎる。
でも小さい運動場だった。

やはり基準となるのは、それが何であるかということであろう。

しかし、ここには個人の主観とそれまで築き上げてきた「常識」が不可欠であることは疑いようのない事実だと思う。
私の高校の運動場だって、他と比べるから小さい、狭いと言われるのだ。他の運動場も全く同じ大きさであればそれは特徴にはなり得ない。
しかもこれも、もっと大きい運動場ばかりを見てきたからこそ生まれる思考である。
テニスコートサイズを運動場としていたならば、私の高校の運動場はあまりにも大きいと話題になっているだろう。

「可愛い」は絶対評価だという友人がいた。
でもそんなはずはない。
真っ黒な画用紙を見て可愛いという人はまずいないだろう。
ということは、誰かが「可愛い」というものは真っ黒な画用紙よりは可愛いということだ。
可愛くないものがあるから、可愛いものを可愛いというのだ。
可愛くないものがあるから、可愛いということが"声を出して言うべき特徴"になりうるのだ。
絶対的な評価なはずはない。

形容詞でなにか特徴を説明するということは、潜在的に比較をしているということに他ならないと私は思う。
良くも悪くも。

特徴を捉えるためには他との違いを見出すことが重要だし、目立つためには他との違いを強調することが不可欠だ。
誰かと比べて卑屈になったり、誰かと誰かを比べて貶めたり貶したり。
そういう使い方ではなく、過去の自分と比べてより良い自分に成長するために「比べる」という無意識を利用していきたい。

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