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長島ノート――盲目のハーモニカ・バンド「青い鳥楽団」を追いかけて (1)

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島に降り立って最初に驚いたのは、道の角という角にスピーカーが設置されていて、それぞれから異なるラジオ放送が流れていることだった。ひっそりとした島の風景のなか、誰かに聞かせるでもなく陽気なお喋りや音楽が常に流れている。その光景はどこか現実味がなく、僕は夢の中のワンシーンに引き戻されたような錯覚に陥った。聞くところによると、この島の住人のなかには視覚障害を持つ方も多く、彼らが出歩く際に事故がないよう道標の役割を果たしているのだという。かつては盲導鈴と呼ばれる風鈴がその役割を務めていて、島の歴史館では鈴の現物を見ることができる。かなりの時間が経過していることが分かる錆びついたその鈴を揺らしてみると、カラカラと乾いた音色が館内に響き渡った。

目の前に広がるのは、瀬戸内らしい穏やかな海の風景である。まるで湖のように静かな海には牡蠣の養殖筏がぷかぷかと浮いていて、その横を小さな漁船がエンジン音を立てながらすり抜けていった。そして、その先には小豆島の雄大な島影が広がっている。僕に十分な財力があればこの場所に別荘のひとつぐらい立てたいものだが、この島では一般人が住居を建てることは許されていない。島全体が国有地となっていて、暮らしているのは2つの国立ハンセン病療養所の入所者と関係者だけなのだ。

——岡山県瀬戸内市、長島。虫明湾の南東に位置するこの島に日本初の国立ハンセン病療養所「長島愛生園」が作られたのは、1930年(昭和5年)のことだった。完成当初は400人ほどの収容を想定していたものの、太平洋戦争真っ只中にあった1943年(昭和18年)には2,000人以上の患者でひしめき合った。ハンセン病は1950年代から1960年代にかけて治療法が確立され、投薬によって治る病気となった。そのため、以降は入所者が減少。現在の入所者も基本的にはそれ以前に島へとやってきた人々だ。長島にはもうひとつ、邑久光明園という国立ハンセン病療養所があるが、どちらも平均年齢は80歳を越えている。

現在、愛生園と邑久光明園、そして香川県高松市の大島青松園という3つの国立ハンセン病療養所の世界遺産登録を目指した活動が進められている。2017年には「ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会」というNPO法人も設立。この会では3つの療養所を広島の原爆ドーム(広島平和記念碑)やポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所のような「負の遺産」として登録し、その歴史を未来へと繋げることを目標としている。実際、島にはかつての入所者たちがいかに外界と隔離された生活を送ってきたのか現代に伝える遺構が、以前の形のまま残されている。職員用のものとは別に設置された患者専用の収容桟橋。かつての入所者が最初に連れてこられた収容所と、そのうちの一室に用意された消毒風呂。故郷に帰ることのできない人々の骨を収めた納骨堂。ひとつひとつ訪ね歩くだけで、歴史の重みに押し潰されそうになる。

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この長島へと僕を招き入れてくれたのは、森山幸治さんという僕と同い年の男性だった。森山さんは数年前まで岡山市内のカフェ「サウダーヂな夜」のオーナーを務める一方で、2011年からは岡山市の市議会議員もやっている。岡山の音楽シーンにおけるキーパーソンのひとりであり、まちづくりの根幹にも関わってきた人物だ。彼は2017年から長島を舞台に「長島アンサンブル」という音楽イヴェントを企画し、島の中と外を繋げる活動を続けてきたが、この2019年には愛生園の一角に「さざなみハウス」というカフェもオープンさせた。森山さんの活動は世界遺産登録をめざした県の動きと連動したものであるのだろうが、それ以上に彼のなかにある強い思いに支えられたものでもあった。僕は島に渡ってみて、その思いが島の住民たちとの関わりのなかで育まれてきたものであることを知った。

僕は島に渡る前に森山さんと会い、さまざまな話を伺った。そのなかでももっとも好奇心をくすぐられたのが、かつての愛生園でさまざまな文化活動が行われてきたということだった。1950年代以降、文芸や美術、工芸のサークルが次々に立ち上がったほか、入所者みずからが役者となる愛生座が組織され、年2回の歌舞伎公演も行われた。台本や小道具も入所者たちが作り、公演の日には島の外からも見物客が押し寄せたという。

愛生園には青い鳥楽団というハーモニカ・バンドがあった。1953年(昭和28年)に結成され、メンバーの高齢化によって幕を下ろしたのは1978年(昭和53年)。中心となるのは視覚障害を持った入所者たちで、彼らは感覚のない指でハーモニカを握り、唇で点字楽譜を読みながら演奏活動を続けた。楽団のリーダーである近藤宏一は2009年に83歳で亡くなるまで、無数の詩と回顧録を残しており、その一部は『闇を光に——ハンセン病を生きて』(みすず書房)という書籍にまとめられている。僕が関心を持ったのは、近藤と青い鳥楽団が描いたヴィジョンが、不自由な肢体で音楽を奏でることにあるわけではなく、独自の表現を生み出すことにあったという点だ。近藤はこう書いている。

楽団青い鳥は、楽器にしても演奏技術にしても音楽というには甚だ貧しい。しかし、皆に親しまれ愛し愛されるとともに、音楽性の豊かなものに高めてゆきたいと思う。そして、青い鳥でなければ聞くことのできない独特のスタイルを生み出してゆきたいと思うのである。(「点字愛生」創刊号 1956年5月)

近藤はまた、ストイックな求道者でもあった。『闇を光に——ハンセン病を生きて』には1950年代から日本でも爆発的なブームとなっていたマンボのリズムを青い鳥楽団に持ち込むため、ドラマーに対してかなり厳しく指導する場面がある。流行のリズムをすぐさま取り入れようとする近藤のセンスに驚かされるが、繰り返しマンボのリズムを叩かせる近藤の姿には、バンマスとしての厳しさが見てとれる。一方で近藤には、一度メロディーを耳にすると、すぐさまハーモニカでそのフレーズを吹くことができたという天性の耳の良さがあった。青い鳥楽団はいくつものオリジナル曲も残しており、島の歴史館ではそのうちの1曲である「あおいとり行進曲」を聞くことができる。近藤が作曲を手掛けたそのメロディーはどこまでも明るくて朗らか。社会から隔離された暗いイメージとはまるで真逆の楽しさに満ち溢れていた。近藤は『闇を光に——ハンセン病を生きて』のなかで、幾度となく明石海人という愛生園で死んだハンセン病の歌人の言葉を引用しているが、「あおいとり行進曲」のメロディーを聴きながら、僕はその言葉を思い返していた。

深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。(「白描」)

『闇を光に——ハンセン病を生きて』には、入所者たちが辿ってきた苦難の歴史についても、当事者ならではの生々しい言葉で綴られている。1930年代から60年代にかけて官民一体となって推し進められた無らい県運動の時代、ハンセン病患者たちは厳しい差別のなかで生きることを余儀なくされた。無らい県運動とは、県内からすべてのハンセン病患者を療養所に強制収容させ、在宅患者を一掃しようというもので、市民が患者(と疑われる者)を発見した場合は警察に通報することさえ推奨された。ほとんど罪人の扱いである。そのため、本人だけでなく、残された家族たちも差別の対象となった。この文章を書いている数日前、改正ハンセン病問題基本法が成立し、元患者の親子や配偶者に180万円を支給することとなったが、ここに至るまでの歳月のことを考えると、この金額は少なくとも妥当なものとはいえないだろう。

だいたい、長島と対岸の虫明のあいだに邑久長島大橋がかかったのは1988年(昭和63年)5月。たかだか30数年前の話であって、つい最近のことなのだ。長島から虫明までの距離は、わずか30メートル。脱走を試みたかつての患者たちは、ひとたび捉えられると監房に収監されたほか、潮に流されて亡くなった方もいたらしい。彼らは島にやってくると名前を変え、別人として生き、故郷に帰ることもできず、別人としてこの世を去っていった。島の納骨堂には職員・入所者合わせて約3,300人分の遺骨が眠っているという。

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2019年11月2日、森山さんが経営する「さざなみハウス」で「青い鳥のハモニカ」という公演が行われた。これはトウヤマタケオさんと阿部海太郎さんによる青い鳥楽団へのオマージュ演奏会であり、ライヴ後には近藤宏一と親交のあった盈進中学高等学校(広島県福山市千田町)の延和聰先生を迎えたトークも行われた。海太郎さんのFacebookページには、この日の公演に向けたこんな一文がアップされていた。

個人的に強く惹かれるのは、ベートーヴェンが目指したような肉体を凌駕する「超経験的」な音楽観と、著書で散見される詩的聴空間とそれを捉えようとする感性です。おそらく「青い鳥楽団」の技術的限界は、理想主義的な近藤さんのその理想と矛盾するものでなかった。

そして、海太郎さんは近藤の音楽世界をこう分析する——「(近藤は)音楽を、むしろ技術的完成とは別の次元で捉えている」。ここでいう「別の次元」とは何なのだろうか。海太郎さんが書く「ベートーヴェンが目指したような肉体を凌駕する『超経験的』な音楽観」がそのヒントにもなるだろうし、青い鳥楽団結成前の近藤が熱心に島の教会に足を運び、キリスト教に救いを求めていたことも糸口になるかもしれないが、その音楽世界がそう簡単に解析できないほどの広がりを持っていることは確かだった。

「さざなみハウス」で開催された「青い鳥のハモニカ」公演は、それはそれは素晴らしいものだった。青い鳥楽団の音楽と向き合い、解析し、なおかつ自分たちの表現を通して再解釈したその演奏は、まさに「オマージュ」であった。近藤ら元ハンセン病患者たちの苦難の歴史を伝えるだけではなく、創造の喜びや生命の輝きをも語り継ごうとするその姿勢に、強く心揺さぶられるものがあった。

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島では森山さんの計らいで、今年で94歳を迎える清志初男さんという画家ともお話することができた。清志さんの人生は、まさに波乱万丈。もともとは奄美大島で船乗りをやっていたが、太平洋戦争の際には南方戦線に送られ、食料や弾薬を運ぶ輸送船に乗っていたという。九死に一生を得た清志さんだったが、故郷に戻るとハンセン病を発症。奄美大島から遠く離れた愛生園に入所することになった。絵を描き始めたのは1955年(昭和30年)。先述した愛生座の歌舞伎公演では女形を演じたほか、青い鳥楽団では美術スタッフも務めた。島に橋が架かってからは岡山市内の歓楽街に繰り出すようになり、夜な夜なナイトクラブやスナックで遊ぶようになったらしい。そのせいか、清志さんの佇まいにはどこか軽妙洒脱な遊び人の雰囲気があった。悲しみ・苦しみ・喜びが複雑に絡み合った清志さんの人生は、愛生園の歴史そのものとも重なり合う。

長島で2日間に渡って濃密な時間を過ごした僕は、岡山市内で音楽仲間たちと朝まで飲み屋をハシゴし、始発の新幹線に千鳥足で飛び乗ってなんとか東京に辿り着いた。島でありとあらゆるカルチャーショックを受けた僕は少々混乱状態に陥っていたようで、東京に戻るとすぐさま体調を崩し、1週間ほど寝たり起きたりの日々を送った。頭がオーヴァーヒートし、身体に対して自動的に停止命令が下されたような感じがした。

与えられたヒントと課題はひとつやふたつではなかった。長島からもそれほど遠くない瀬戸内海の鶴島はキリシタンの受難地として知られ、彼らの苦難の歴史に自身の半生を重ね合わせた近藤は、「鶴島哀歌」というオリジナル曲を書いた。また、鶴島での迫害を生き延びた岩永マキは、故郷である長崎県浦上村に戻ったあと、国内初の児童養護施設とされる「小部屋」(現在の浦上養育院)を開設。多くの孤児を育てた。また、愛生園では毎年夏、納涼夏祭りが行われるが、ここではなぜか滋賀県の江州音頭が踊られるのだという。盆踊りは愛生園創立当初から続けられているそうで、盆踊り愛好家としてはそのことにも興味がそそられた。愛生園の精神科医長を務めた神谷美恵子は『生きがいについて』など無数のエッセイを残し、彼女の先輩にあたる小川正子は愛生園の実情を『小島の春』という手記で綴った。

そうやって調べれば調べるほど、愛生園を中心にした多種多様な人生が連鎖し、多方面へと広がっていった。ひとまず僕はゴールをあらかじめ定めるのではなく、ひとつひとつのヒントを頼りにしながら、長島の物語を辿っていくことにしたのだった。

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