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阿久根焼酎の歴史
”焼酎”はおよそ永禄2年(1559年)には鹿児島に存在していましたが、明治三十二年の免許制度導入以前の焼酎について書かれてる文献は多くはありません。
しかし今でも閲覧できるものがいくつかあります。
その中から阿久根の焼酎について書いてあるものを紹介します。
江戸時代
江戸買物獨案内
![](https://assets.st-note.com/img/1679895878933-4VfybRFMFy.jpg)
大坂の中川芳山堂により文政7年(1824年)に出版された『江戸買物獨案内(エドカイモノヒトリアンナイ)』 の中に、阿久根の焼酎が紹介されています。
この本は江戸のショッピングガイドのようなもので、各商品について取扱のある商店を紹介しています。上・下と飲食の部(飲食店)で構成され、2622軒もの店舗を収録しているとのことです。(参照:国立歴史民俗博物館)
上の写真はそのガイドブックの中の1ページで、「酒売場」コーナー。
左ページ、赤い矢印の行に阿久根の表記があります。
「薩州 阿久根(当時の表記である”阿久祢”となっています)」「一升 代八百文」と書かれています。右側のページにある”名酒”が300文前後であることを考えると、高値で取引されていたことがわかります。
三国名勝図会
![](https://assets.st-note.com/img/1679900581916-CqkeLjih2Y.png?width=800)
江戸時代後期である天保14年(1843年)に書かれた「三国名勝図会(サンゴクメイショウズエ)」は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書です。(参照:鹿児島大学デジタルコレクション)
その中にも阿久根の焼酎についての一文があります。
”焼酒 列国諸州に、薩州阿久根焼酒ありと招牌を出すは、即当邑の製なり、元禄前後より、阿久根の般若干艘、江都及び浪華に上下す、時に邑製の焼酒を載て交易す、是より其製始て諸国に伝わり、其名四方に遍し、凡そ本藩焼酒の製は、琉球より伝え、琉球は漢土より伝う、当邑焼酒は、味辛烈にして、尋常の焼酒と異なり、当邑の艚戸琉球に航して、異製の法を伝えしとかや、本藩産物の内、名品の称遍く、列国諸州市店の招牌に見えたるは、阿久根焼酒と、国分煙草なり。”
太字による強調は、筆者による。
摘要を書くならば、
・阿久根焼酒は、その名前が日本全国各地の市場の看板に見られるぐらい知名度があった。
・阿久根から江戸や大阪などの都市に出ていた船に焼酎を一緒に載せていったのが全国に広がったきっかけ
・薩摩藩の焼酎のルーツは、中国→琉球→薩摩という経路をたどった(*注1)
・味は他の地域の焼酎とは比べものにならない、船乗りが琉球に渡って酒造法を持ち帰ったとも*注2
・これに並ぶ薩摩藩の特産品といえば、国分の煙草がある
となるかと思います。
*注1・2:焼酎のルーツや歴史については今なお議論が続いているところですが、そのまま掲載しました。
(現代語訳協力:新里勇生氏)
江戸時代、阿久根の焼酎が名品として江戸で売られていたことが窺える貴重な資料です。
明治以降
焼酎の自家用酒税法が廃止され、自家醸造が全面禁止になったのは明治三十二年。国は自家用醸造禁止の代わりに共同醸造を認めました。大石酒造創業者である大石長次郎も当初他の二名と共に共同醸造を始めましたが、二年後には単独で事業を継続し、今日に至っております。
![](https://assets.st-note.com/img/1679901507598-vFJRkpfVLf.png)
この頃の阿久根には、大石酒造以外にもいくつかの焼酎蔵があったそうです。
以下、阿久根市立図書館にある阿久根市誌からの抜粋です。
”….米製焼酎の市販はこれより十年早く、明治二十四年(1891)に中山友太郎が阿久根焼酎の銘柄で創業出荷している。
三十年ごろは盛んに東京、大阪方面に販売し、酒屋の看板に「阿久根焼酎」の文字をながめて、郷土出身の書生が喜んだという。
阿久根焼酎は出水地方で最初といわれ、次いで丹宗・大石・峰、脇本の江良・中村・園田、大川の中村 などが製造販売した。
原料は初め米であったが、しだいに甘しょが多くなり後ほとんど甘しょに統合された。
原料甘しょは良質で、製造された焼酎の味もよかったのであるが、大正の末ごろから経営振るわず、次々に廃業して、阿久根の大石、脇本の江良 二軒だけが続けて操業している。
昭和二十一年(1946)には、安楽酒造(筆者註:現鹿児島酒造様)が従業員五十余名を使い、新しい製造機械を用いて大量の焼酎を製造するようになった。
製品は遠く東京、大阪方面にも売り出している。
阿久根市の焼酎生産状況は前表のとおりであるが、昭和三十七(1962)、八年が最盛期で、それ以後はビール、酒に押されて従業員も出荷額も年々減少している。しかし近年は焼酎のよさが見直されて、静かなブームを呼びつつある。”
太字による強調は、筆者による。
上記資料の最初の方に、最初は米焼酎を造っていたと書かれています。
大石酒造にも、大正後期〜昭和初期には米焼酎を造っていたことがわかる古いラベルが残っています(詳しくはこちら)。
![](https://assets.st-note.com/img/1679962345663-VBmFawjTPb.jpg)
当時の時代背景を鑑みると、戦争による米の価格高騰や購入の制限などにより次第に芋焼酎にシフトしていったと想像できます。
当時と重なる大正から昭和30年までの間は、さつまいもの作付け面積や収穫量も年々増加していました。入手困難な米からさつまいもに原材料を変更することは、自然な流れだったと思われます。
また阿久根では大正の末期に次々と焼酎蔵が廃業する事態に見舞われていたようですが、その中で大石酒造がなぜ生き残ることができたのか、理由は定かではありません。
継続することのできなかった焼酎蔵の思いも引き継いで、次の世代にも阿久根焼酎の味わいを残していけたら嬉しいです。
![](https://assets.st-note.com/img/1679900973707-W58ExmNef8.png)
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