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情けなくも、今日も前を向いている
両親と美味しいものを食べに行った。正しくは、両親が月2で通っている居酒屋について行かせてもらった。
父は僕に飯を奢るのが好きらしい。ありがたいことだ。感謝を込めてあやからせてもらっている。
母と話をすると、自分の情けなさを痛感するか、むしろ忘れて楽しめるかのどちらかになる。今日は後者だった。
母の母、つまり僕の祖母がかなり高齢になってきて、様子を見に行くたびに祖母の衰えを感じるという。特に耳が弱くなってきているらしく、話が噛み合わなくなることが増えたそうだ。ここだけの話、僕は祖母と話すのが得意じゃないので、祖母のためにできることは少ないと思う。母の、祖母に対する感情を聞き役として受け止めることくらいしかできない。
父も母も、そんな僕を未だに甘やかしてくれるので、僕は、両親のおかげでいつまでも子供でいられるのだなとつくづく思うのだった。
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両親は正しく「好きに生きる」を体現していると思う。もちろん、これまでの歩みは好き放題ではなかっただろう。でも、実家の食卓で仕事の愚痴をこぼしていた頃に比べたら、仕事のストレスから解放されて楽しそうに過ごしている今のほうが、随分と活き活きしているように見える。
良いことだ。カウンターで横並び、楽しく酒を飲む2人の間に挟まれながらそう思った。
いわゆる定職とやらに就いていない自分を、両親はどう思っているのだろう。
母には「社員になったほうが何かあった時に安心要素が多いよ」と言われたことがあるが、最終的には「好きにすればいい。アンタの人生だから」と言われ続けてきた。父もそうだ。「人様に迷惑をかけないようにしつつ、好きに生きなさい」と言われて育った。
若い頃の過ちが全くなかったと言えば嘘になるが、不義理なことは避けて生きているつもりだ。それでも、口先ばかりで何も実現できていない自分を、情けなく思う。
もっと、自分にも両親にも誇ってもらえる自分でありたかった。両親の真意を、確認したことはないが。
三十路を迎えてから、焦燥感を抱きやすくなったと思う。
自分は一体何をやっているんだという自問に、自信を持って答えられない日々が続いた。今もなお、答えられないときがある。そんな自分の情けなさを思って泣きそうになるのさえ、情けなく思う。
一体何をしてるんだ、僕は。
それでも最近は、情けない自分を許せるようになってきた。
僕の人生は僕の好きに生きていいはずなのだから、どうせなら楽しく生きていきたい。自分を嘆くばかりの人生なんて、楽しくない。
「好きにしたらいい」と言う両親の顔が浮かぶ。父と母が楽しそうに過ごしているのと同じように、僕も楽しんで生きてみよう。そしてそのための努力を、惜しまないことにしよう。
僕は父と母のおかげで、今日も前を向いている。