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石膏デッサンが終わらない

この石膏像は初心者向けだから、と描きはじめてそろそろ10ヶ月が過ぎようとしている。
もちろん、趣味で通ってる絵画教室だから、まるっと10ヶ月手を動かし続けているわけではない。
途中に人物デッサンや人体デッサンも挟んでいるので、作業時間としてはおそらく25時間そこそこだと思う。
25時間。自分で計算してみて少しへこんだ。
結構時間かけてるんだなあ。

小さい頃から絵を描くのが好きで、美大を志したこともある。
しかし、絵を仕事にするということに漠然とした不安を抱き、絵と同じくらい好きだった化学と生物を勉強するため農学部に進学した。
農学部を卒業後そのまま農薬メーカーに就職。
仕事は楽しかったが、どこかで絵に対する執着が残っていた。
絵を仕事にはできなかったけど、そうだ、習おう。
そう思い立って絵画教室に通いはじめた。

最初の頃は木炭のことを石炭と言い間違えてみたり、木炭用と鉛筆用の練りゴムを間違えて購入したり、それはデッサンではなくてイラストだと言われたり散々だった。
けれど、楽しい。とても楽しい。
はじめてすぐは静物ばかり描いていたが、先生に勧められてヌードデッサンに挑戦した。


「目の前に、裸の女のひとがいる」という衝撃。
しかしその衝撃も絵を描き始めたら忘れてしまう。
真っ白な木炭紙に、目の前にただあるその存在を表していく作業。
頭身を測り、中心線を取り、関節や筋肉のうごきを考えながらザクザク木炭をのせて、のせては取っていく。

いまそこにある空気、そのひとが持つ雰囲気、からだの美しさを感じながら描きすすめる。
わたしはこの人をどのような人と見たか、どの部位を美しいと感じたか、その思いを込めながら木炭をのせていく。
先生に、「君の絵は形がとれていないけれど、その代わりにのびのびとした空気と、そこに人がいるという存在感を感じる」と言われた。

存在感

その存在感はおそらく、わたしが感じた、モデルさんの内面だろう。


人物、人体画はたのしい。だって、そこに生きた、個性を持った存在がいるから。
だけど、毎回先生には「形が取れていないね」と言われる。
先生は、わたしの“内面を見ようとする“ことを否定しない。
ただ、「絵を見るときに、その存在感よりも先に形の不自然さが目立つと絵をきちんと見てもらえないよ」と教えてくれる。

そうか、そうか、そうか。いままで逃げてきたけど、石膏像、描くか。


石膏像は一ミリのズレも許されない。
それ自体が白いから光の方向も分かりやすい。
人物、人体画のような“味“を出すのではなく、“光の方向“や“立体感“、“かたちの正確性“など、どちらかと言えばわたしが苦手なことばかりを求められる。

描きはじめてしばらくはひどいものだった。
まず、石膏像のモデルであるアグリッパは軍人なのだが、どう見てもわたしが描いたアグリッパは二日酔いでむくんだ顔のおじさんにしか見えない。
むくみおじさんは3ヶ月ほど続いた。
先生の指導により、少しずつ石膏像の形に近づいたが今度は4ヶ月間、目元が優しい哲学おじさんになってしまった。

試行錯誤を続けるなかで先生は様々なヒントをわたしにくれた。

「いちばん濃い影が落ちるのは際じゃないよ、それは錯覚だよ」
「光が90°で当たる場所がもっとも明るくなるよ」
「常に回り込みを意識して、その像の見えない場所がどう続くのかを考えて」
「いま自分の仕事がどこに繋がるのか、ゴールを見据えて手を動かして」
「ゴールが見えたとして、そのベクトル上にいま自分はいるのか?考えて」
「もっとも修正しなければならないところはどこなのか、優先順位はその時々で変わるからね」

とにかく、「手を動かす前も最中も考えろ、思考を止めるな」という指導。
だから絵を描くととても疲れる。
しかし、描けば描くほど、自分がどういう人間なのかが見えてくる。

確かにわたしは緻密な仕事は向かない。
どちらかというと、人間味あふれる仕事、例えば雑談から仕事の機会を伺ったり、人と人との関係を繋げることのほうが、数字を追いかけたり書類を作る仕事より好きだし得意だ。
仕事に限らず常に心がけていることは相手の「態度」や「言葉遣い」から「性格」や「機嫌」などの内面を探ること。

そう、絵を描くときと全く同じなのだ。

石膏デッサンが終わらない。なぜか。
わたしはそこにある事実をそのまま受け入れて、落とし込むことができないから。
自分の見かたで判断してしまうから。
感情で石膏像は描けない。
アグリッパは今も昔も軍人のまま、別に哲学者に転職もしないし、ましてや酔っ払いおじさんではない。

終わらない石膏デッサンに向き合い続けると、次第に見えかたが変わってくる。
ここに影ができるのか?正しい光の方向は?この先はどう繋がるんだっけ?

石膏デッサンに苦戦するわたしの手はゆっくり、ゆっくりとしか動かない。
けれど、絵を描くことで自分の内面と向き合えるなんて、とても贅沢なことだ、と思う。
いままでの私は目の前の存在を追うことに必死で、そのひとの内面ばかり気にして、感情を乗せることしか頭になかった。
感情を乗せるためには、感情を乗せきるだけの土台、基礎が必要なのだ。

歳を取ったら考え方が固定されるよ、なんて言われるけれど、そんなの言っておけばいい。
わたしは、自分の絵に様々なことを教えてもらっている。
人の内面を見ること、表すこと、表すためには土台が必要なこと。

これから、まだまだたくさんの絵を描いていきたい。
わたしが描きたい絵は、人物でも石膏でもない。
わたしが見たことない世界は、わたしの絵が見せてくれる。
だから大丈夫、わたしの知らない世界は、木炭で真っ黒になった自分の手で広げていくのだ。

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