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『異端の鳥』―人間には居場所が必要ですー

最初に

 舞台は東欧の何処かであり、映画で使われる言語は人工語であるエスペラント語だという。徹底的に映画の舞台が特定されないようになっている。しかし、時代はナチスによる「強収容所」の時代であることが、映画の途中で明らかになってくる。

 そういうことからも、この映画は、特定の国や特定の時代を描こうとして作られた訳ではないことが分かる。この映画は、時空を越えた「人間」を描いている。「強制収容所」は、人間の内面にあるものを著しく刺激するものではあるが、それ以上のものではないと思う。

 2019年のベネツィア映画祭でユニセフ賞を与えられ、10分にわたるスタンディングオベーションがあったそうである。余りの悲惨さに、何人かの退場者もいたようだが。

ペインテッドバード

 原題は「ペインテッド バード』(色を塗られた鳥)という題で、3時間に及ぶ白黒映画である。

 ある少年が田舎の老婆の家に預けられている所から、物語は始まる。しかし、なぜ預けられたのかは分からない。その少年も分からないのだろう。

 周囲にいる人々は白人で、肌は白く髪は金髪なのが当たり前である。しかし、少年の肌は褐色であり、髪は黒い。そういう人間は、それだけで「虐(いじ)め」の対象になる。つまり差別される。

 最初のシーンは少年が他の少年たちに追いかけられ、ついに大事にしていた犬が子どもたちによって奪われ、生きたまま焼き殺されるという目を背けたくなるような場面である。その悲惨さ老婆に訴えても(と言って、少年の声は全くないが)、老婆は「お前が悪い」とだけ言うのだった。

 少年は、葉で舟を作り、「早く迎えに来て欲しい」という両親への手紙を舟に乗せて小川に流すことしかできない。しかし、それが無益なことであることは、誰にでもわかる。多分、彼も分かってはいる。でも、そういうことをするしかない。彼には、身の置き所がないのである。

 ある朝、老婆が椅子に座ったまま、息をしていなかった。その姿を見てビックリした少年が、思わずランプを落としてしまう。その炎が原因となって、家が全焼してしまうのだった。その結果、少年の過酷な旅が始まる。

旅で経験したこと

 その旅で彼が経験したことは、凄まじい。権力を持った人間は、時に冷酷だったり、残虐だったりする。しかし、”自粛警察”と言われるものに見る如く、実は善良な庶民も怖い。

 「自分は正しいことをしている」という思いは、間違ったことをしていても高揚感を人に与える麻薬のようなものらしい。そして、癖になる(依存が生じる)。

 私たちの中に潜む差別意識、欲望、嫉妬、残虐性・・・・何かの刺激があると、それらのものが高揚感を伴って一気に噴き出てくる。実は、そのことが最も怖ろしいことだと思う。

 昨年から新型コロナウイルス感染が深刻な問題だが、ウイルス感染者は同情すべき「被害者」であると同時に他人を感染させる「加害者」でもあり、時に周囲の人々から陰湿な攻撃にさらされることがある。私たちは、そのことにも脅えているだろう。

 流浪の旅に出ざるを得なかった少年は、占いを生業とする老婆に拾われ、手伝わされたりする。ある時は、熱を冷やすために顔だけ出して土に埋められ、カラスから頭を突かれる。

 また異様に嫉妬深い老人の家の居候をしていた時、老人が使用人の男と自分の妻が不倫をしているのだと疑い、使用人の両眼をスプーンで抉り出すという恐るべき様を見ることになったりする。

 その後に、強制収容所に向かう貨物者の壁を破って逃げるユダヤ人たちを、貨物車の上から機関銃で撃つ兵士、またジープでやって来て、まだ息がある人を銃で撃ち殺す兵士の姿を彼は見ることになる。その時、少年は、殺された者たちのカバンの中身を物色し、生きるに必要なものを取るのだった。

 性の奴隷として少年を利用し、彼が役に立たないと見るや、彼を捨て、獣姦までする若い女性もいた。彼女に心惹かれてもいた少年は、真夜中、彼女のベッドに、獣姦相手の山羊の頭を切り落として、投げ入れるのだった。

 そして、表向きは敬虔なカトリック教会の信者として生きつつ、実は小児性愛者として少年をいたぶる中年男性を、ネズミが大量にいる穴に突き落として殺してしまう。

 村の若い男たちを誘惑して性的関係を持った不埒な女性が、村の女たちから集団リンチを受けて殺されてしまう。彼女の恋人であり、少年の面倒をみていた男は、それを見て、首を吊ってしまった。少年は、その男の宙づりの体にしがみ付き、男が息が出来なくなる手助けをする。

 その男は沢山の鳥を飼っており、その鳥を売ることが仕事であった。その彼が、ある鳥の羽にペンキで色を付け空に向かって放すと、空を飛んでいた他の鳥たちが、色を塗られた鳥を一斉に襲い、色を塗られた鳥は殺されて地面に落ちてしまう。言うまでもなく、そのことが原題の由来になっている。

 人間は鳥と同じレベルを生きている動物であること、そして絶対少数者は異端として常に排斥されることを暗示しているのかもしれない。

 また、ドイツ兵に殺されそうになったり、ソビエトの狙撃兵が復讐のために、遠くの村人や子どもを狙撃する様を見させられたりし、別れ際にその兵隊から拳銃を渡されるのだった。

 彼は道行く老人を襲い、自分が生きるに必要なものを奪ったりする。

 彼は、嘗て一人の少年であった。しかし、その後、様々な人間に利用されつつ残虐なことをされ、そういう様を見させられたりしつつ、今や生きるために他の人、それも弱い人を平然と襲う人間になっていく。

 その極みは、言葉を話さない彼を精神薄弱児と見做した男の後をつけ、男が独りの時に、表情ひとつ変えず、渡された拳銃で撃ち殺すことに現れる。

 彼は、戦災孤児が入れられる施設に入れられる。その施設にいる少年たちが彼を虐めようとやってくる。しかし、彼の目を見ただけで、少年たちは何も出来ない。彼は黙って少年たち間を通り抜けていくのである。少年は、最早嘗てのひ弱な少年ではない。

 その施設に、彼の父親がやってくる。彼を必死に探してのことであるに違いない。しかし、少年にしてみれば、迎えに来ない親は親ではない。彼は言語を絶するような悲惨な経験をしながら、何とか生き延びてきた。親が来ても、泣くでも笑うでもなく、抱きつくでもない。黙ったままだ。

 父親は「親の顔も忘れたのか。自分の名前も分からなくなったのか。お前のためを思ってやったことなのだ」と呻く他にない。責める訳でも、詫びる訳でもなく、彼としては、それが精いっぱいのことだったと思う。

 ラストシーンは、父親の隣に少年が座ったバスの中である。恐らく、バスは彼らが住むべき家に向かっているのだろう。

 疲れて眠ってしまった父親の手首に、強制収容所で付けられた数字を見た少年は、自分は収容所に入れられないために、田舎の老婆に預けられたのだと知ったに違いない。そこに父親の背一杯の愛があると感じたかもしれない。

 そこで何があったか、その後に何があったかは強制収容所に入れられていた父親が知る訳がない。少年も話したくなんてないだろう。話せる内容ではないし。

 父親も死ぬか生きるか分からない歩みをして来たことを、少年は直感したと思う。父親も強制収容所内で見たこと、経験してこと等、何も話したくはないだろう。人間の内面にあることなど、人に話してくはないものだ。

 少年は、父の手に付けられた数字を見つつ、人いきれで多少曇っているバスの窓ガラスに自分の本名を書くのだった。彼の新たな旅はここから始まることを予感させるように。

居場所

 少年の年齢は12~13歳頃であろうか。まだまだ親の庇護の中に自分の居場所を見出している年齢である。しかし、いきなり地方の老婆に預けられ、その地の少年たちに激しく虐められ、預けられた老婆には「お前が悪い」と言われてしまう。彼には居場所がない。

 彼は家に帰りたいし、親に迎えに来て欲しい。そこが彼の居場所だから。しかし、彼の願いは叶わない。

 彼は流浪の旅をすることになる。そして、人間はその肩書、身分、年齢、国籍、性別、民族、宗教……に拘わらず、ペインテッドバードを排除するものだと知っていくことになる。

 利用することも、その本質は排除と変わらない。表面的には受け入れていても、実際は収奪しているのであり、侮蔑している。人間は人を見下すことを通して、自分を肯定し、自分の居場所を自分で作るものだ。

 しかし、そういう風にすることによってしか、自分の居場所を発見出来ないのか。

 海面に浮かぶ島を右から見て「あの島はこういう形をしている」と言う場合、「あの島はこちらから見れば、こういう形をしている」ということだ。

 しかし、得てして「あの島は何処から見てもこういう形をしている」と思いがちだし、そのことに同意する者が正当だと思いがちだ。左から見て「あの島はこういう形をしている」と言えば、それはペインテッドバード(異端)の意見だとされることが多い。

 これまで語ってきたことは、海面から島を見た場合のことだ。しかし、島を上から見たらどう見えるのだろうか。 自分のことを自分の視点から見る。社会の視点から見る。それぞれの姿が見えるだろう。そういう複数の視点を持つことは大事だと思う。しかし、それらの視点も海面からの視点であることに変わりはない。

 自分を造った創造者の視点から見たら、自分はどう見えるか。実は、そこにこそ自分の居場所があるのではないか。

 イエスは言った。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(聖書・ルカ5:38~39)

 イエスは完全なペインテッドバードだろう。だから彼の地上の生涯は愛する相手から排除されることで終った。しかし、イエスは自分を排除する人間たちを愛した。それが復活に結びつくのだろう。

 彼は常に神を見、その中に自分の居場所を見つけたから、人に排除されても、彼らを愛することが出来たのではないか。

 こういう愛は人間にはない。しかし、その愛の中にしか居場所は無いのでないか。

山梨教会ホームページ


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