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建設中のホテルに泊まる、停電の夜、蛍。

ふと思い出したことがあったので書きつけておきたい。
インドは、ゴータマ・ブッダが悟りを開いた菩提樹があるという町でのこと。
今思い返すと夢のようにさえ思える。

どうやってそのホテルに辿り着いたのか覚えていない。
滞在中は往々にして、見知らぬ誰かの案内でなかば強引に連れて行かれることしばしばだった。

のこのことついていくのは危険だとは身に染みて経験していた。けれども、同時にいくら観光客目当ての客引きとはいえ、警戒すべき悪意ある人間がそう多くはいないということもだんだんとわかり始めていた。

要は、いい加減で、あわよくばお金が欲しくて、半分はゲーム感覚で客引きしている感じだった。諦めも早かった。

昼間。
何もない田圃道を歩いていると、ホテルの看板を見つけてむしろその唐突さにこちらが驚いたほど。中に入ってみると、男性がひとりいた。
泊まれるか尋ねると、彼は「もちろん」と言った。
けれどまだところどころ、壁にモルタルを塗っている最中で、他に客はひとりもいなかった。

案内された部屋はこぎれいだった。石の床がひんやりしていて気持ちがよかった。ところどころ、壁から未知の配線が飛び出していて、これに触ったら感電死するのだろうかと思った。

ベッドの脇には穴が開いている。なんとなく、指を突っ込んでみたくなった。すると、何か物音がして、穴の奥から巨大なアリが這い出してきた。それも1匹や2匹ではない。泡立つようにして、次から次に。昆虫は好きなほうだけれど、さすがにギョッとさせられた。

じきに、そのホテルは、男とその妻、幼い子どもの住居でもあることがわかってくる。お客というよりか、その家族の家に居候しているという感じが強かった。
建物の外に出てみても田圃しかない。暇すぎて、私は幼い子どもといっしょに紙飛行機を飛ばして遊んだ。男の子は思いのほか大興奮だった。

ベッドで昼寝をして目覚めると、あたりは真っ暗だった。
手探りで部屋を出ると、例のホテルのオーナーがろうそくを灯していた。何が起きたのか。訊くと、停電だという。
またか。それまでに訪れたインドの街で、嫌というほど停電に遭遇していた。

夜風で涼もうと建物の外に出ると、真の暗闇があった。けれども時々、遠くの空で紫色の稲妻が光った。じょじょに目が慣れてくる。雷とは別種の光も目につくようになる。あれは何か。訊くと、蛍だという。

私は蛍の光を追ってみることにした。昼間通ってきた道を蛍が乱舞しているのだった。ホテルを離れるにつれ、蛍の光が尋常ではないほどに明るくなってくる。だんだんと、催眠術にかかったみたいに歩きだした。子どもの頃そうしたように、一本道を夢中で歩いた。

どれくらい歩いたか分からないが、物音に気がついて立ち止まった。蛍で点滅する暗闇のなか、明らかに何かの気配がする。小さくはない。
さいしょは人かと思った。ら、牛だった。牛がいるということは人もいるだろうと思ったが、牛しかいなかった。目が鈍く光っている。

足がすくんだ。目は見ようによっては優しかったが、それ以上進む気が起きなくて引き返した。不意に牛が現れるのだから、それ以上に予想もつかないものが現れてもおかしくないと思った。これ以上先へ行きたくない。

自分のあまりにちっぽけな想像力を、環境は圧倒的に凌駕していた。
停電はあいかわらず続いていた。
ホテルのあるあたりがほの明るかった。話し声が聞こえた。
蝋燭を足元に置いて、二つの人影がプラスチック製のチェアに座っていた。ひとつはオーナーの影。
もうひとつは、よく見るまでもなく、鮮やかなマリーゴールド色の僧衣をまとった、剃髪の男性だった。反射的に頭を下げると、彼は合掌してうなずいた。
すれ違った覚えはない。しかも私が引き返してきた道は、建設中のホテルの前でちょうど、行き止まりになっていた。

                         *旧アカウントより転載*

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